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2012年7月4日11時6分
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逆落とししなかった? 源義経

イラスト:鵯越の逆落としをめぐる諸説拡大鵯越の逆落としをめぐる諸説

 比類なき戦上手といわれた武将・源義経が、断崖を馬で駆け下り平氏に奇襲をかけたとされる一ノ谷の合戦。しかし、その「逆落とし」の有無や場所を巡り、現在も論争が続いている。

■「断崖を駆け下り奇襲」議論の的

 源義経は1159年、源義朝の子として生まれたとされる。稚児として鞍馬寺に入るが、後に奥州に下って藤原氏の保護を受け、80年に兄の頼朝と対面する。

 その後、木曽義仲軍を破った宇治川の合戦を皮切りに、一連の平氏追討戦を指揮。屋島の合戦や壇ノ浦の合戦でも勝利を収め、平氏を滅亡に追いやった。

 中でも84年の一ノ谷の合戦は官軍としての義経のデビュー戦にあたり、特に城郭の裏山の崖を馬で駆け下りた「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」は、日本戦史に残る奇襲の成功例として、舞台や映画などでも取り上げられてきた。

 しかし、この逆落とし、古くから議論の的だった。問題となるのは、地名が残る神戸市兵庫区鵯越町が一ノ谷城郭から8キロも離れていることだ。これでは一ノ谷の裏山を駆け下りて奇襲――という話は成り立ちにくい。

 国学院大兼任講師の菱沼一憲さん(日本中世史)は2005年、『源義経の合戦と戦略』でこれを一歩進め、「義経は鵯越の逆落としをしなかった」との仮説を提起した。根拠の一つは当時の一級史料とされる、関白九条兼実(くじょう・かねざね)の日記「玉葉(ぎょくよう)」である。兼実は合戦翌日に現地の義経からの詳報を得ているが、その報告では「一ノ谷を落とす」とだけあって、逆落としについては一切触れられていない。

 菱沼さんは「玉葉」の記述から、源氏軍は長さ10キロ前後の、福原・生田〜一ノ谷間に布陣した平氏軍を東西から挟撃しようと計画し、源範頼の軍は東の生田口から、義経軍が西の一ノ谷口から、そして武将・多田行綱(ただ・ゆきつな)の軍が一ノ谷背後の山手口(鵯越筋)からそれぞれ攻め入ったとみる。「仮に逆落としが行われたなら、実施者は多田行綱とみるべきではないでしょうか」

 「義経の鵯越の逆落としを記すのは『平家物語』とその影響を受けた『吾妻鏡(あずまかがみ)』ですが、遠方の鵯越を義経が活躍した一ノ谷に引き寄せて、劇的演出をしようとした平家物語作者の創作である可能性が高い」と言う。

■平家物語の創作説にも異論

 だが、これには異論もある。『源義経』(05年)の著書がある国立歴史民俗博物館客員教授の近藤好和さんは「『吾妻鏡』などにある一ノ谷の後ろの山という記述を重視すれば、義経が実際に逆落としをしたのは、一ノ谷に近い鉄拐山(てっかいさん)か鉢伏山と推測するのが自然。そう考えれば距離の矛盾も解消する」と話す。

 実際、このように考える研究者は少なくない。ただし、鉄拐山周辺は傾斜がきついため、馬では下りられないという意見も。これに対し近藤さんは、近代ヨーロッパの軍事学校での訓練の写真などを掲げ、「慣れれば馬は垂直に近い斜面でも下りることができる」と主張する。

 とはいえ、仮に義経が逆落としをしていなかったとしても、「俊敏で、行動力と決断力に富む武将だったとの評価は変わらないだろう」と近藤さん。

 ただしイケメンのイメージは修正の必要がありそうだ。平家物語は容貌(ようぼう)を「背が小さく、前歯が出てよく目立つ」と記す。現代人ならナインティナインの岡村隆史さんのような感じか。理想化・美形化が進むのは室町期の「義経記」以降。物語世界の話なのである。(宮代栄一)

〈読む〉

 義経の軍略を総括したのが、菱沼一憲『源義経の合戦と戦略 その伝説と実像』(角川選書)。近藤好和『源義経 後代の佳名を貽(のこ)す者か』(ミネルヴァ書房)は当時の戦いの実相から書き起こし、義経の実像に迫る。

〈見る〉

 歌舞伎の「勧進帳」をはじめとして、源義経は何度も舞台化・映像化がなされてきた。NHKの大河ドラマでも尾上菊之助(現・尾上菊五郎)主演の「源義経」(1966年)、滝沢秀明主演の「義経」(2005年)がある。

〈訪ねる〉

 一ノ谷の戦いにおける平氏の陣は、今の須磨浦(すまうら)公園(神戸市須磨区)にあったとされる。北側には逆落としの候補地の一つ鉄拐山が。一方、現在、鵯越の地名が残る鵯越町(同市兵庫区)は一ノ谷から東へ8キロ離れている。

■そのころ世界は

 源義経が活躍した12世紀、ヨーロッパでは、聖地回復を唱えて始まった十字軍遠征が半ばを迎えていた。

 ▽サラディンらの反撃で1187年、約90年ぶりにエルサレムがイスラムに奪還される。89年、再奪還のための第3回十字軍が編成されるが、フリードリヒ1世が水死。リチャード1世はサラディンと休戦して終わる。

 ▽中国では1115年に女真族の完顔阿骨打(わんやんあぐだ)が金を建国する。金は25年に遼を、翌26年には北宋を滅ぼすものの、その金も1234年にモンゴル帝国によって滅亡した。

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