- 山中秀樹
やまなか ひでき。フリーアナウンサー。1958年、広島市出身。早稲田大学卒業後、1981年にフジテレビ入社。報道番組「FNNスピーク」をはじめバラエティ番組「笑っていいとも」など、数多くの番組を担当し、フジテレビを代表するアナウンサーとして活躍。2006年7月、同社ライツ開発局ライツ開発担当部長へ異動、現場より後輩の指導などに重きを置く管理職となる。同年12月、「管理職よりしゃべる現場にこだわりたい」との思いから退社し、2007年1月からフリーアナウンサーとして活動を開始した。現在の所属事務所は、以前から交流が深かった爆笑問題と同じ「タイタン」。
- 堀井憲一郎
ほりい けんいちろう。フリーライター、コラムニスト。1958年、大阪市出身。早稲田大学文学部卒業後、フリーライターになる。「バットをもっとも遠くに放り投げる野球選手は?」、「ツッコミが一番早いお笑い芸人は?」など、日常の中で沸き起こる小さな疑問を、徹底的に調査し、それを数値化することを信条としており、それをもとにコラムやエッセイを執筆。またテレビやラジオでもコメンテーターとして活躍している。現在も「週刊文春」で「ホリイのずんずん調査」を長期連載中。著書に「馬鹿が止まらない」「この役立たず! ホリイのずんずん調査」「若者殺しの時代」など。
- 「粗忽長屋」
ある男が浅草の観音様にお詣り行き、仁王門の処へ出ると何やら人だかりが出来ていた。どうやら“行き倒れ”になった人がいるらしい。それを一目見ようと、無理矢理前にいる人たちの股ぐらをくぐって最前列に出た男、その“行き倒れ”の顔を見て驚いた。隣に住む友人の熊五郎ではないか。この男が顔見知りと知った世話役は、引き取ってくれと頼む。が、男は「熊五郎には身寄りがないから当人に引き取らせる。あいつはボーッとしてるから、多分ここで死んだことに気づいていない」とチンプンカンプンな答え。男は長屋へ戻ると熊五郎を呼び出し、「お前は死んでる」と告げ、生きている本人に“死んだ”ことを納得させようとする……というなんともシュールな噺。
- 宮田輝
みやた てる。本名、宮田輝(あきら)。元NHKのアナウンサー。1921年、東京都出身。明治大学卒業後、1942年にNHKに入局。1949年から、当時まだラジオ放送だった「のど自慢素人音楽会(現NHKのど自慢)」の司会を担当。同番組がテレビ同時放送となった53年を挟み66年まで務めた。また、1952年に始まったラジオ番組「三つの歌」、1966年に始まった「ふるさとの歌まつり」を担当し、「紅白歌合戦」で1953年から21年間にわたって、白組あるいは総合司会を務めたことなどにより、名実共にNHKを代表するアナウンサーとなった。1974年にNHKを退職し、その年の参議院選全国区に自民党から立候補しトップ当選を果たしている。その後も民放の「全日本有線放送大賞」などで司会を務めたが、1988年頃からがんを患い、その2年後に死去した。
- 「宿替え」
宿替え(引っ越し)することになった、とある家の親爺さん。張り切って奥さんに命令を出し、家財道具を集め一つの大きな荷物にして持って行こうとしている。しかし慌てものの親爺さん、荷物と家の根太を括りつけたことに気が付かず、荷物が持ち上がらないと大騒ぎ。やっと家を出たかと思えば、とんでもない回り道をした上に様々な事故を起こし、やっと新居に着いたかと思えば、今度は長屋の薄い壁に八寸もある釘を打ち込んで近所は大迷惑……。慌てもんの親父さんがあっちこっちで事件を起こす爆笑ネタだが、日頃あまりパッとしないお父さんが、引っ越しという非日常の場面で、男としての父親としての威厳を取り戻そうと頑張る姿が少し微笑ましい噺でもある。江戸前では「粗忽の釘」。
- 色川武大
いろかわ たけひろ。1929年、東京都出身。少年時代、戦後の混乱期の中で様々なヤミの仕事に就き、またこの頃から博打で食べることを覚える。1950年頃から職を転々とし、1951年に共栄社、1953年には桃園書房に入社。この頃から娯楽雑誌で文筆活動を始める。55年には同社を辞め、井上志摩夫などのペンネームで娯楽小説を書く。1961年に本名で応募した「黒い布」が中央公論新人賞を受賞。1966年には雀風子名義で「マージャン講座」というコラムを書き人気を得る。そして1969年、週刊大衆に阿佐田哲也名義で「麻雀放浪記」の連載を開始、同シリーズは若者の絶大な支持を受けた。が、この頃から難病に悩むようになる。1978年には「離婚」で第79回直木賞を受賞。以後も多数の著書を出版するが、1989年に心筋梗塞で死去した。
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