なぎら健壱

 なぎらけんいち。フォークシンガー、タレント等。本名、柳楽健一。1952年、東京都中央区銀座生まれ。中学生の頃からギターを弾き始め、中3から高校時代にかけてフォークソングに興味を持ち、歌い始める。1970年に開催された中津川フォークジャンボリーに、「怪盗ゴールデンバット」という曲で飛び入り出演。これがきっかけとなり、72年、ファースト・アルバム「万年床」でレコードデビューを果たす。以後、人間味あふれる歌を歌い続け、数々のアルバムを制作。それ以外にも、テレビやラジオへの出演、新聞、雑誌での執筆活動などでも大活躍。また、趣味の多彩さでも有名で、主なものに書道,天文観測,プロレス評論,エロ風俗評論,酒,自転車などがある。

中津川フォークジャンボリー

 岐阜県恵那郡坂下町(後に合併し中津川市の一部になる)にある椛の湖湖畔で、1969年から1971年にかけて3回開催された日本初の野外フェスティバル。正式名称『全日本フォークジャンボリー』。1960年代後半から70年代にかけてのフォーク・ソングブームを作ったアングラ、サブカル系フォークシンガー達が多数出演し、日本の音楽史に残る一大ムーブメントとなった。またこの時、アマチュアミュージシャンのための飛び入りステージも用意され、このイベントをきっかけにプロに転向した者も多い。

岡林信康

 おかばやしのぶやす。フォークシンガー。1946年、滋賀県近江八幡市生まれ。父親は牧師で賛美歌を聴いて育つ。同志社大神学部在学中に教会の在り方などに疑問を持ち、大学をドロップアウト。その後、高石ともやに影響を受け、フォークソングを歌い始める。反戦フォークブームを巻き起こし、"フォークの神様"と呼ばれる。しかし、こんな周囲の身勝手な偶像化に嫌気がさしたのか、1969年9月のコンサートの後に蒸発。70年に復帰するも、彼の歌は当時傾倒していたボブ・ディランの影響を受け、ロック色を前面に打ち出したスタイルに大きく変化していた。71年に突然表舞台から姿を消し、渡米。帰国後は、岐阜や京都の山村で暮らしていたが、75年に「うつし絵」という演歌のアルバムを発表。その後、五木ひろし、美空ひばり、西川峰子らに楽曲を提供し大ヒットしたものの、様々な音楽スタイルの変化は、常に論議を巻き起こしてきた。87年頃、韓国の打楽器集団サムルノリと出会い、その影響から現在は「エンヤトット」という日本の民謡のリズムを追求し、独自の音楽世界を開拓中である。

高田渡

 たかだわたる。フォークシンガー。1949年、岐阜県生まれ。3歳の時母親を亡くし、その後、一家で東京に移り住む。高校時代、アメリカのプロテスト・ソング、トピカル・ソングに魅せられ、曲作りを始める。日本の吟遊詩人と呼ばれ、岡林信康と並ぶフォークの教祖的存在。「自衛隊に入ろう」「大ダイジェスト盤三億円強奪事件の唄」など社会を風刺した曲で有名になり、1969年2月、URC(アングラ・レコード・クラブ)からレコードデビュー。71年には、中津川フォークジャンボリーにジャグ・バンド武蔵野タンポポ団を編成して参加。その後も「歌いたいところで歌う」をモットーとして、ライブハウスを中心に活動していたが、2005年4月3日、北海道白糠町でのライブの後に倒れて入院し、同16日、心不全により入院先の北海道釧路市の病院で死去する。

西岡たかし

 にしおかたかし。フォークシンガー。本名、 西岡隆。1944年、大阪府出身。幼少時から兄の影響を受けジャズなどの音楽に親しむ。高校卒業後証券会社に就職するが、画家を志し1年後に退社。その後、下着デザイナーをしながら曲作りをし、1967年に音楽好きの仲間とともにフォークグループ「五つの赤い風船」を結成し、リーダー役を務める。「遠い世界に」という名曲をヒットさせ、当時の若者に絶大な支持を受けたが、72年にグループは解散。その後はソロ活動の他、作曲やプロデュース活動、DJやCMソング制作など幅広く活動する。2000年、新メンバーを加え「五つの赤い風船」を再結成し、アルバム「2000」を発表。現在も活動中。

黄金餅

 下谷の山崎町に住む願人坊主の西念は徹底したケチン坊。汚いなりをしているが、実は金をしこたま貯め込んでいた。この西念がこのところ病にふせっていると知った、隣に住む金山寺味噌売りの金兵衛が見舞いに行くと、ケチな西念は金がかかるからと医者も呼ばず薬も飲んでいないため青息吐息。見かねた金兵衛が何か食べたいものはないかというと、あんころ餅をたくさん食べたいと言う。金兵衛があんころ餅を買ってきてやると、西念は金兵衛を部屋に追い返した。気になった金兵衛が、壁の穴から隣の様子をのぞいてみて驚いた。なんと西念が貯め込んだ金を、餅と一緒に飲みこんでいるではないか。その後、餅を喉に詰まらせあえなく往生してしまう西念。金兵衛は、何とかこの死体から金を取り出すそうとするのだが……。金に執着し、それを飲み込んで死んだ男と、それを何とか我がものにしようとする男。あまり気持ちのいい噺ではないが、最後はハッピーエンドになるところが落語ならでは。この噺で客を屈託なく笑わせるには、演者の個性と芸のセンスが必要とされる。

山崎町から麻布の木蓮寺

 落語「黄金餅」の中で、死んでしまった西念を下谷の山崎町(現在の東上野辺り)から麻布絶江釜無村の木蓮寺(実際には存在しない)まで運ぶ場面がある。この全行程を細かく説明したものが以下のセリフ。「下谷の山崎町から上野の山下へ出て、三枚橋を渡って上野の広小路、ここから御成街道を真っ直ぐに、堀様と鳥居様のお屋敷の前を通って、筋違御門から大通りへ出まして、神田の須田町へ出て、新石町から鍛冶町を抜け、今川橋を渡って本白銀町、石町から本町を抜けて日本橋を渡りまして、通四丁目から中橋へ出まして、南伝馬町を抜け京橋を渡って尾張町を真っ直ぐに、新橋を右に切れて土橋から久保町、新橋の通りを真っ直ぐに、愛宕下から天徳寺をくぐって神谷町から飯倉六丁目、坂を上がって飯倉片町、その当時評判の「おかめ団子」の前を真っ直ぐに麻布の永坂をおりて、十番へ出まして、大黒坂をあがって一本松から麻布絶江釜無村の木蓮寺に来たときには、ずいぶんみんなくたびれた」この長ゼリフ(演者によってセリフに多少の違いはある)を立て板に水の如く噺家が語ると、場内から拍手が沸き起こるというこの噺一番の聞かせ所。五代目古今亭志ん生は、このあと「あたしもくたびれた」と付け加え、おおいに笑いを取った。

悲惨な戦い

 なぎら健壱作詞・作曲のコミックソング。1972年8月に行われた「五つの赤い風船」の解散コンサートでなぎらが飛び入りで歌った楽曲を、73年URC(アングラ・レコード・クラブ)からリリースされたアルバム「葛飾にバッタを見た」に収録したもの。74年にはエレックレコードによりシングル盤が発売され爆発的にヒットする。内容は、大相撲の取組中、ある人気力士のマワシに汗がしみ込み緩んでしまい、あっという間にずり落ちてしまう。そのハプニングに、某国営放送のカメラマン、同ラジオのアナウンサー、国技館の照明係、行司、その力士の弟子が火に油を注ぐように加わり大騒動になる……というもの。もちろん実際にあった取組ではないのだが、歌詞中に若秩父、朝潮など当時実在していた力士の名前が使われていたため、彼らの抗議を受け放送禁止になってしまった。