現在位置:asahi.com>文化・芸能>芸能>舞台>演芸> 記事 〈浅草の灯よ:5〉青空球児・好児 歩み着実、41年2007年02月16日11時20分 「こいつ、区議になって、『先生』と呼ばないと答えないんだよ」
青空球児(65)が突っ込む。 4年前に世田谷区議になった好児(63)は「そんなことはないですよ」と受けるが、少し間をおいて突然、「先生」と呼びかけられると、思わず、「はい!」。 浅草東洋館の場内は毎月、笑いの渦だ。 * 65年にコンビは生まれた。「もう41年だよ。いやになっちゃう」と球児は言うが、続いてきた。 球児はコロムビア・トップの内弟子をした後、60年、松倉宇七が「浅草新喜劇」を起こそうとつくった浅草東洋劇場の研究生になった。東八郎や萩本欽一もいた。しかし客の入りは悪く、経営は不調。劇場を出て、トリオ・ザ・パンチ、ナンセンストリオ、トリオ・スカイラインなどを転々。 好児は俳優養成所で学びながらエキストラをした後、森川信一座などで地方回りをしていた。 球児がコンビを組んでいた相方とけんかした夜。たまたま、遊びに来ていた好児を代役として誘ったのが始まりだ。 最大のヒット作が70年代前半の「ゲロゲーロ」。 球児「うちの村では、春はカエルが知らせるんだ」 好児「どうやって」 球児「ゲロゲーロ、ケロケーロ」 球児が走り回りながら鳴きまねをして、最後はひっくり返る。 しかし、日劇の初演は全く受けず、席を立つ客が少なくなかった。衣装を変えてもだめ。好児は「恥ずかしくて外へ食事にも行けなかった」。2人は、互いに「相手が下手」と思っていた。 それが東急文化会館の小さな舞台で一変した。プロデューサーから「『受けなくても良いから、汗をかいて一生懸命やってくれ』といわれてやると大受け。訳がわからず、ズボンのチャックが開いているのかと思った」と好児はいう。 その後、逆さ言葉の「よもくぼ」や「駅弁」など、ヒットを飛ばした。正統派漫才ではなく、マイクを持って縦横に舞台を走り回る。漫才というよりコントに近い。 人気が沸騰したことはなかったが、確実に地歩を固めてきた。 一時、離れていた浅草にもしばらくして戻った。閉館した東洋劇場に代わって、松竹演芸場の舞台に83年の閉館まで立った。いまは東洋館が主舞台だ。 * 区議の好児は、一貫して教育問題に取り組む。立候補に球児は反対だったが、「出る以上は上位を」と応援演説までした。師匠のトップが参院議員になった後に残されたライトの気持ちがわかったという。 コンビの舞台が減った球児は芝居の道を切り開く。東洋館11月公演「浅草の灯よ いつまでも」では主役。「雰囲気が似ている」と周りからいわれて、あこがれた八波むと志の演技に自らを重ねる日々だ。 (敬称略) PR情報 |