現在位置:asahi.com>文化・芸能>芸能>舞台>演芸> 記事 〈浅草の灯よ:7〉内海桂子 ねじ巻き続ける84歳2007年02月20日10時28分 「昔のいじめなんてもっとすごかった。死ぬ気になればどんなことだってできるでしょ」
「戦後変わったのは了見が狭くなったこと」 内海桂子(84)の弁舌は鋭い。 「波瀾(はらん)万丈」という言葉以上の人生が、桂子の言葉に重みを与える。 * 両親の駆け落ち先の千葉県銚子市で生まれた。「昔は子供も働くのは当たり前」とさらりというが、小学校3年の時、引っ越した家の敷金20円を払うため、神田のそば屋へ子守奉公に出された。 その後、げた屋で働きながら、母に勧められた三味線と踊りの稽古(けいこ)。15歳の時には、小さな一座の地方巡業に参加した。 漫才師としてのデビューは1938年。浅草橘館が初舞台だった。夜はどの町内にもあった小さな演芸場を回った。やっと、普通の暮らしができるようになったのもつかの間、19歳の時に出産。父親は妻子のいる相方だった。東京大空襲では浅草千束の家が全焼した。 しかし、桂子はへこたれない。むしろ、そこから生来の意地っ張りで切り抜けていく。 戦争が終わると、いとこの作った焼き団子やのり巻きを吉原で売りまくった。世の中が落ち着き始めると、浅草のキャバレーのホステスに。特定の客の相手は苦手だったが、フロアで踊り客の気持ちをつかんだ。2階の座敷では三味線を弾きながら小唄や端唄。「浅草のお桂ちゃん」と呼ばれた売れっ子だった。 * 浅草に劇場が復活したことで、漫才に復帰する。50年、14歳下の好江と出会い、コンビを組んだ。 好江も小学校に2年しか通っていない苦労人。桂子は好江を厳しく仕込み、芸人仲間から「鬼ばばあ」といわれたほど。 「三味線をただ弾くだけでなく、胴をたたき、しゃべりの部分も歌いながら踊る」。歯切れがよいしゃべりも加わり、一躍人気者になった。コンビは、好江が97年に死ぬまで足かけ48年続いた。 1人になった桂子だが、活動は衰えを知らない。舞台では体操までやって見せる。80歳で銀座で初めての絵の個展を開いた。30年以上前に絵日記帳を買って以来、つらさを忘れるため描き続けていた。 昨年秋、息苦しくなり病院に行くと片方の肺が機能していないといわれた。そのころ、墓石に彫ろうと作った都々逸が、「生命(いのち)とは粋なものだよ 色恋忘れ、意地張りなくなりゃ 石に成る」。しかし、すっかり元気を回復した。 漫才協会会長。若い芸人への目も厳しい。「芸じゃない。ただ笑わせればいいと思っているから、汚い言葉や変な言葉を使う」 大事にしている手巻きの金時計がある。キャバレー時代に客からもらった。まだ動く。「気がついた時に、自分でねじを巻けば動いてくれる。私はねじ巻き時計に似ている」(敬称略) PR情報 |