現在位置:asahi.com>文化・芸能>芸能>舞台>演芸> 記事 〈浅草の灯よ:10〉萩本欽一 笑いの原点、恋し続け2007年02月23日10時19分 「すごい役者が集まり、楽屋から役者同士の戦いが始まっていた。ぴりぴりしていて雑談もない。じっと何かを考え、舞台でぶつけていた」
1959年、浅草東洋劇場に入った萩本欽一(65)は振り返った。 六区には劇場、映画館など36館もあり人波が絶えなかった。東洋劇場には池信一、石田英二、東八郎らとびきりの役者がいた。 萩本の記憶は鮮明だ。「演出家は楽屋に来て、『おまえはドロボー、おまえはおまわりさん』というだけで帰っちゃう。それを聞いただけで、役者は舞台に出てアドリブで客を笑わせた」 先輩の役者に、「どうしたらうまくなるのですか」と聞いた。しかし、「『10年したらバカでもなれる』とか、まともな返事はもらえない。『自分で探せ』ということだと気づいた」。 池から教わったのは、「大きな声を出せ」。東からは、舞台の上で次の動きを耳うちされたが、どう動いたら良いのか、わからなかった。 すぐ上がってしまい、せっかく舞い込んだ公開番組の中のテレビCMで19回もNGを出した。 * 「もうテレビは嫌」。そんな時、坂上二郎(72)と再会した。坂上は東洋劇場の上にあったフランス座のコメディアンで、顔見知り。66年、コント55号が誕生した。 浅草松竹演芸場が舞台だ。萩本が執拗(しつよう)にいびって坂上を困らせる。「二郎さんはマグロの刺し身だって演じてしまう。すぐれたボケを困らせるのは大変だった」 2人は舞台を駆けまわり、そでの壁にまでよじ登った。テレビに進出しブレークした。しかし萩本は、「半年ぐらいでネタ切れになって、後はぶっつけ本番。面白かったのは演芸場のころ」という。当時の2人は私生活では全く話をすることがなかったのも迫真の演技を生んだ一因だ。 5年ぐらいで人気は下降線になり、2人は別々の活動を始めた。 萩本は、「欽ちゃん劇団」を作り若手の育成に乗り出し、94年から4年間、浅草のショーレストランで公演をした。でも、「鼻血を出すほどおかしかった浅草の先輩の芸を伝えたいと思ったけど無理。作家がいい加減の方がコメディアンは育つ。浅草の芸人はたけしが最後じゃないかな」。 * 坂上は03年、脳梗塞(こうそく)で倒れた。しかし翌年6月、コント55号は明治座の舞台で復活する。その時、萩本は改めて坂上の芸のすごさを見た。「劇場の空気まで笑わせる」 いくつも舞台を手がけてきた萩本は思っている。「浅草でやっていた笑いがぼくの笑い。浅草を思って舞台をつくっている。コント55号も昔のように動けないから、いまは小さな浅草の舞台が一番、似合う。またやりたいなあ」(敬称略) =おわり PR情報 |