現在位置:asahi.com>文化・芸能>芸能>舞台>落語> 記事 〈浅草の灯よ:2〉林家正蔵 育てられ芸域広げる2007年02月13日10時54分 その日、林家こぶ平(44)の目は潤んでいた。05年3月13日。九代目正蔵襲名のお練りが浅草・雷門通りにさしかかると、歩道から車道に人があふれた。人波は14万5000人。
台東区根岸で育ち、祖母うたに手を引かれて観音様にお参りした。00年、浅草演芸ホールのお盆興行での初めてのトリも忘れられない。 * 「恩返しをしたい」。お練りの後に浅草公会堂で無料の「感謝の落語会」を開いた。 その時だった。「クダイメ」「ハヤシヤ」に交じって、「親孝行」「ありがとう」の声が聞こえた。「今でも胸がキュンとなる。こんな声ないよ。浅草のお客様の懐の深さですよ。うれしい。ありがたい。でも応えるのは大変。複雑な心境でした」 「あまたの噺家(はなしか)、喜劇人、役者が育ってきた土壌だから、温かいけどお愛想をいわない。だめなものには小言をいう。気のない高座をやると客にはすぐわかってしまう」 祖父の名跡正蔵を継ごうと決意したのはお練りの2年前だ。酒を断ち、猛げいこに明け暮れた。「空いている時間は一日中。ある日、ペロッと一皮むけた」 80年に亡くなった「昭和の爆笑王」の父三平を正蔵は、「真剣を持った野武士のように、ばっさり笑わせる」と語る。 大きな父の背中を見て育った正蔵は席亭から「三平さんのような噺を」といわれ、「何を出したら喜んでもらえるのか」と一時、悩んだ。答えが、「自分がやりたいことをやろう」だった。芸域は広がった。 * 浅草は三平と海老名香葉子夫妻にも特別な町だ。東京五輪の64年、寄席として浅草演芸ホールが開業。三平はどんなに忙しくても高座にあがった。「おっかしいんだよ。出てきただけでみんなが笑う」とホール会長の松倉久幸(70)。三笑亭笑三は「忙しさは、みのもんた以上。でも、ちょっと現れ、他の人がいる舞台でも出て行き小噺をして帰っていく」。 うたは、「(三平は)おなかにいるときから観音様にお参りしていた」が口癖だった。 仲見世で、「三ちゃんがんばれよ」という声がかかる。「両手をあげ、『よっ。ありがとうございます』」。「三平のおかみさん」と今も呼ばれる香葉子(73)の思い出だ。 ただ香葉子には悲しい記憶もある。浅草のおばさんに連れられて行った町には「おたけさーんと鳴く」オウムのいるお汁粉屋、吉備団子や氷水の屋台、お化け屋敷があり、「楽しみで楽しみで」。しかし、東京大空襲で家族6人を失い、おばさんの家も全員が死んだ。 それから60年。正蔵のお練りを香葉子は「夢のような気持ち」で見送っていた。 毎年8月31日、演芸ホールでは「三平追善一門会」がある。(敬称略) PR情報 |