現在位置:asahi.com>文化・芸能>芸能>舞台>落語> 記事 相次ぐ落語家の襲名 軽すぎやしませんかねぇ2007年11月06日11時25分 そんなもんなんだといってしまえば、存外、そんなものなのかもしれない。このところ相次ぐ落語家の襲名のこと。05年の林家正蔵(←こぶ平)、06年の柳家小さん(←三語楼)、今年親子で同時に改襲名した林家木久扇(←木久蔵)・木久蔵(←きくお)、そして先月発表された09年からの林家三平(←いっ平)。襲名ラッシュだ。
すべてが大名跡ではない。正蔵、小さんは大きいが、木久蔵、三平は一代で名を広めた。会見などでは、大きい名ほど開き直りの発言が目立った。新小さんは「だめだろうと何だろうと、とにかく私が『六代目小さん』」。新三平は「この襲名が軽いか重いかは自己責任」と話した。 確かに、襲名は一種のカンフル剤だ。「落語ブーム」を少なくとも表面上は維持する効果もある。立場が人を育てることもあり、飛躍を期待こそすれ、否定する必要もない。寄らば大樹の陰で、世に通った名がほしいのも、人情だろう。 だが、亡き名人上手らへの畏(おそ)れをなくし、自己を律する節度の堰(せき)が切れてしまった、とも見える。しかも世襲。一連の襲名は父か祖父が継いだ名ばかり。早晩、歌舞伎のように「御曹司」が定着するかもしれない。 襲名には、試験もクリアすべき明文化された条件もない。新三平襲名について鈴々舎馬風・落語協会長は「私が、協会理事会に推挙した。すると『もうそろそろいいんじゃないか』と満場一致で決まった」。観客側も、無言のダメだしをする眼力を失いつつある。 落語は、着物、手ぬぐい、扇があれば成立する。演目の解釈も裁量幅が広い。様式的制約の中で、ようやっと成り立つ歌舞伎とは違う。柳家喬太郎らの新作のおもしろさを考えれば、現代語でもいい。 古典芸能といっても、実にファジーだ。肝要なのは、世襲制や門閥ではなくて、先天的センスと後天的修業で磨かれた芸。頼みとするのは、寄席や落語会などの見巧者。だから、どんな時代でも「ナマの感覚」を保ち得るのではないか。襲名頼みの風潮が強まれば、可塑性を拒む意味での古典化が落語にも及んでしまうように思われる。 ところで、空白の大名跡を見渡してみよう。古今亭志ん生、三遊亭円生、そして聖域のような三遊亭円朝……。01年に没した古今亭志ん朝は晩年、父が名乗った志ん生の襲名について「ありがたいですが、とても継げる状態ではありません」と話していた。この言葉、妙にずっしりくる。 PR情報 |