DIALOG 日本の未来を語ろう :朝日新聞デジタル
2017/10/02

特別インタビュー シンガーソングライター・川嶋あいさん

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私の人生を夢と愛で彩ってくれた両親との出会いは、奇跡だと思う

8月20日、大勢のファンが集う東京・渋谷のオーチャードホールに、シンガーソングライター・川嶋あいさん(31)の澄んだ歌声が響き渡った。デビュー以来、毎年同じ日におこなってきたワンマンライブは、川嶋さんにとって特別なステージだ。なぜなら8月20日は、歌手になるという夢を一緒に追いかけてくれた、大切なお母さんの命日だから。
「母とは血こそつながっていませんが、一生懸命に私を愛し、私の夢を応援してくれました。母だけでなく父も早くに亡くしましたが、そんな両親に巡り会えた私は幸せだと思っています」

児童養護施設で暮らしていた川嶋さんは、3歳のときに福岡市内で土木建設会社を営んでいた川島博文さん・のり子さん夫妻のもとに迎えられ、その後養子になった。
「施設に時々やって来る両親のことを、本当のお父さん、お母さんだと思って『早くおうちに帰りたい』と願っていた記憶があります。母はとにかく明るく豪快ですが、逆に父は優しくて穏やかな人でした。父とはトランプやオセロをしたり、別府温泉へ連れて行ってもらったり、一緒に遊んだ思い出がいっぱいあります。でも母との思い出は、不思議なことに歌に関することばかり(笑)」

かわしまあい●1986年福岡県生まれ。歌手になることを目指して高校1年生のときに上京。2002年から始めた路上ライブは3年後には1,000回に達し、「路上の天使」と呼ばれる。03年、I WiSHのボーカルとしてデビュー、人気テレビ番組の主題歌「明日への扉」がヒット。その後ソロとして活動。代表曲に「旅立ちの日に…」「My Love」、母への感謝の気持ちを歌った「…ありがとう…」など。

音楽教室へ私を連れて行った本当の理由

音楽との出会いも、一緒に暮らし始めて間もない頃、のり子さんに連れられて行った近所の音楽教室だった。
「歌った後に、私がとびきりの笑顔で笑いかけてきたことが母はすごくうれしかったらしく、その場で先生に通わせてもらえるようにお願いをしてくれたようです。結局、上京するまでずっとその音楽教室に通い続けました」

習い事の一つだと思って始めた歌のレッスンだったが、やがて才能が開花。5歳から有名演歌歌手の前座で歌ったり、コンクールで優勝したりするうちに、いつしか「歌手になる」ことが娘と母の夢になっていった。
「二人で追いかける夢があったおかげで、10歳のときに父が亡くなったときも頑張って生きてこられたのだろうと思います。特に母は、二人きりの生活になってからの方が『この子を歌手にする』という思いを強くしたようでした」

川嶋さんはのり子さんがなぜそんなにも自分を歌手にすることに一生懸命だったのか、ずっと疑問に思っていたという。ところが今年の夏、音楽教室の先生に当時の話を聞いて謎が解けた。
「私は全く覚えていないのですが、一緒に暮らし始めてから、私は毎日のように『施設に帰りたい』と泣いていたらしく、困った母が、育児相談をするために先生のもとを訪ねたのがそもそもだったようです。その時の先生の『子どもと一緒に親になっていけばいい。大丈夫、絶対思いは伝わるから』という言葉がその後の母の支えだったとか。歌と一緒に私を育てていこうと決めたんでしょうね。母は誰よりも私の〝本当のお母さん〟になろうとしていたんだと気づき、その後のいろんなことが腑に落ちました」

私を歌手にすることが母にとっての生きがいに

初めて両親と血縁がないことを知ったのは、中学1年のときだという。 「母に書類を取ってくるように言われて開けた金庫の別の引き出しの中に、私の名前とその母親の欄に見知らぬ女性の名前が記入された書類を見つけました。一緒に里親制度のパンフレットもありました。『一体どういうこと?』と、一目散に母に聞きに行くと、それまで私が見たことがないくらい悲しそうな顔になって……。私が施設にいたこと、両親とは血がつながっていないことを簡単に説明し、最後に『でも、愛はお母さんの本当の娘やけんね!』と言われて、その話は終わりという感じでした」

翌日からも、まるで何事もなかったかのように変わらず明るく接してくれたのり子さん。体調を崩し入退院を繰り返すようになっていたにも関わらず、福岡で中学生の演歌歌手として活動していた川嶋さんを連れて中洲の飲食店をまわったり、初めて会う人に娘の歌をPRしたり、と懸命だった。
「私を歌手にすることが、母にとっては生きがいでした。そんな母の姿を見ているうちに、私も『血がつながっていようがいまいが、そんなことどうでもいいか』と思うようになりました」

そして、もっと大きく羽ばたいて欲しい、とのり子さんは地元・福岡から東京の高校へと娘を送り出した。
「母も寂しかったと思いますが、早く独り立ちさせたいと思っていたみたい。その代わり、『今、何しとうと?』と、朝から晩まで電話の嵐でしたけど(笑)」

高校へ通いながら、シンガーソングライターとして路上ライブを始めた川嶋さん。「路上ライブ1000回達成」「CDを手売りで5000枚」そして「渋谷公会堂でのワンマンライブ」という、のり子さんとの3つの約束を果たすべく励むうちに、現在もスタッフとして支えてくれる仲間にも出会えた。のり子さんはそのことを心から喜んでいたという。
「亡くなる少し前に久しぶりに帰省し、果物狩りやクルーズ船での食事へ行ってたくさん笑い合いました。それが母と過ごした最後の時間になりました」

2002年8月20日、のり子さんはこの世を去った。デビューが決まる1カ月前のことだ。

血のつながりよりも共に過ごした時間が大切

シンガーソングライターとして、心に残る楽曲を数多く世に送り出してきた川嶋さんだが、アフリカの発展途上国での学校建設支援や自然災害の被災地での無料ライブなど社会貢献活動にも積極的に取り組んできた。
「きっと両親の影響です。刑務所から出所した人を雇用することでその更生を手伝ったり、児童養護施設に毎年クリスマスプレゼントを贈ったりしていた二人だったから。一緒に暮らすうちに、世の中を見る目や他者を思いやる気持ちが、〝遺伝〟したんだろうと思います」

血のつながりより、一緒に見た景色、一緒に過ごした時間が大切だと言う。 「子どもが求めているのは『安心』です。この人たちがいつも一緒にいてくれる、この人たちがちゃんと自分を見ていてくれる。信頼できる大人の存在が子どもには必要です。そんな人たちとの奇跡のような出会いが、一人でも多くの子どもたちにあってほしいです」

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