2018/03/19

「東日本大震災」という文字を見ると、黙ってしまっていた私

Written by 鈴木詩織(POTETO) with 朝日新聞DIALOG編集部

生まれも育ちも東京。現在、大学1年生の私・鈴木は今年2月に東北取材に行くまで、「東日本大震災」については話したくない、ずっとそう思っていた。

きっかけは中学生のとき。学校の授業で、震災のドキュメンタリー番組を見て、感想文を書くことになったが、そのドキュメンタリーを見ても、震災をどこか他人事のようにしか思えなかった。つらいだろう。大変だろう。できることがあれば何かしたい。そんな気持ちはあった。けれど、やはり現実味はなく、書いた感想文に並んだ言葉はありふれた道徳的な言葉ばかり。そのときに感じた、なんとなく後ろめたい気持ち。もうだれとも震災について話したくはない、と強く思った。

昨年の春、震災当時小学生だった私は大学生になった。けれど、自分の言葉で震災について話せる自信はなかった。当たり障りない空っぽの言葉を並べるくらいなら黙っていたほうがいい、と思っていた。でも、それと同時に、もう一度、東日本大震災について知りたいとも思った。メディアで報道される大人の声やきれいな言葉だけではなく、自分と同じ世代の震災を経験した人は、あのときどう感じ、今は何をしているのか。彼らの本音を聞きたい。そんな思いから、東京の若者による東北の若者への取材が始まった。

今回取材にご協力いただいたのは岩手、宮城、福島出身の4人。彼らが体験した「東日本大震災」とはどんなものだったのだろう。

こんな話はあまりできないけど

島越彩香さんは、岩手県宮古市出身の大学4年生。震災当時は中学3年生で、実家の被害は畳が浸水した程度だったという。今年の春から宮城県の会社に就職する予定だが、いずれは大好きな地元・宮古で働きたいと考えている。ただ、震災が起こるまで、地元が好きという思いはなかった。なぜ好きになったのだろうか。

「被災した次の日だったと思うんですけど、市役所の方が、自分たちもおそらく大変な状態だったのに、『おうちは大丈夫でしたか』と、一軒一軒、気にかけて丁寧に回ってくださったんです。そのとき、街のために働いている大人がすごくカッコよく見えて、私も街に貢献できる人になりたいと思いました」

震災後には、それまで感じていなかった、近隣住民とのつながりも感じたという。

「地域みんなで協力して、助け合って避難生活を送ったことで、地域とのつながりを初めて感じられて、普段からそうだったらいいのになって思いました」

高校生になった島越さんは、「みやっこベース」という団体で活動した。「みやっこベース」は、宮古で育った若者たちが誇りを持って暮らせる街をつくるため、宮古について考える高校生サミットやプレゼン大会など、地域の中での学びや体験の場づくりをしている。宮古の高校生は、卒業すると多くの人が宮古から出て行ってしまうからだ。

島越さんにとって震災は人生の大きな転機だった。今回すごく印象深かったのは、彼女が事前のインタビューで言いにくそうにこう話してくれたことである。

「震災では、私の周りは誰も亡くなっておらず、家も浸水したけど畳を張り替えるくらいで済みました。だから言えることなのですが、震災がなかったら消極的なままで、みやっこベースにも参加することはなかったと思います。いろいろな人とのつながりができたのも震災後でした。家の前で瓦礫を片付けたり、作業をしていたりしたときは、近所の人たちとの会話が常にありましたし、遠くに住んでいる親戚にたくさんお世話になったけど、震災がなければそんな親戚がいることも知らなかったし、話す機会さえなかった。震災から日が経つにつれ、当時交流していた人とのつながりが消えてきたことがすごく悲しくて、地域コミュニティに興味を持つようになりました」

もちろん被災の悲しい体験はたくさんある。もっとつらい思いをした人もたくさんいる。だからこんな話は普段あまりできない。島越さんは、そう教えてくれた。

このままだと、私の嫌いな何もしない大人と同じ

田畑祐梨さんは、宮城県南三陸町出身の大学4年生。震災当時は中学3年生だった。ずっと変わらない夢は、南三陸町に国際交流の機会を提供することだ。

震災で家を流され、恩師を亡くし、生きる希望を見失った田畑さんにとって、世界中の人から届いた励ましの手紙は救いだった。世界中の人にいつか感謝の気持ちを伝えたいとずっと思っていた。チャンスは高校2年生のときに訪れた。岩手、宮城、福島の高校生が米国に無料で短期留学できるプログラムを発見したのだ。ただ、そのプログラムに応募するには、「留学から帰ってきたら何をしますか?」という質問に答えなければならなかった。帰ってきたら何をしよう。迷った田畑さんはインターネットで「南三陸 復興 状況」と検索してみた。そして、自分の町は全然復興していないことに気づいた。

「街づくり協議会、とかあっても、私たち若者はそれを知らない。私たちがこれから南三陸町の町を作っていくはずなのに、私たちがそこにいないとか、私たちに参画する機会を与えてくれないとか、どうなのかなあと思って。大人って何をやってきたんだろう、と思いました」

しかし、高校2年生のある日、ニュースを見て衝撃を受けた。

「テレビで、隣の市の高校生が、地域を若者の力で盛り上げる団体を立ち上げたっていうのを聞いて、すごいなあって。それと同時に、同じ年の子が立ち上がっているのに、私は何をしているんだろうって。毎日毎日、大人ってくそだとか、大人って役に立たないとか思っているだけで、私は何もしていない。このままだと、私の嫌いな何もしない大人と同じだ。そう気づきました」。そして、彼女は語り部の団体を立ち上げることにした。受験期でも毎日、放課後に語り部を行なっていた。

大学は国際関係学部に進学。被災地の子どもたちのために何かしたいという思いから、福島県の女子高生のキャリア教育にもかかわった。今年4月に人材系の会社に入社する予定だ。

「私は会社で夢を応援することを学びたいし、私が力をつけていった先にある将来の夢、南三陸町の子供たちに国際交流の機会を提供するっていう夢に向かって進みたい」

自分もこの町では子育てしたいと思わない

佐藤美南さんは、宮城県南三陸町出身の大学2年生。津波で家が流されてしまった佐藤さんは、震災後、岩手県のみなし仮設住宅に住んでいた。

「震災前は本当に南三陸町が嫌いでした。震災後に引っ越すってなったときは正直うれしくて、やっとこの町から離れられる、やっと都会に住める、とわくわくしていました。でも実際に行って半年くらい暮らしてみると、やっぱり地元の友達が恋しいし、地元に残った祖父母と一緒に住みたいし、南三陸で当たり前だったことが当たり前じゃないことが分かりました。近所の人と会話するにしても、引っ越した先はちょっと都会で、近所の人もお互い顔を知らなくて、すごく寂しかった。そのときに私、実は南三陸が好きなんだって気づいたんです」

将来は地元で働きたい。もともとは教師になりたかったが、南三陸町の現状を見て考えが変わった。

「教員になりたくて大学に通っていたんですけど、南三陸に子どもたちがいなくなったらどうしようって。だったら南三陸に教員以外の職業で戻って、子どもを増やすほうが先だな、と考えるようになりました。まずは公務員になって、役場職員として子どもたちが住みやすい町を作ることが、今の自分にできることだと思っています」

佐藤さんが幼かったころと今とでは、子どもたちを取り巻く環境は大きく変化している。以前は1学年全員で町全体を使った鬼ごっこをすることもあった。それが普通だと思っていた。しかし、現在の南三陸町は工事中の場所も多く、子どもが安心して遊べる場所は少ない。

「2030年の南三陸町は子どもがたくさんいる町であってほしい。私自身も、30歳を過ぎたら結婚して子どももいると思うんですけど、そのときも今のままの状況だったら、正直この町で子育てしたいとは思わない。自分も満足して子育てできる町づくりをしていきたいです」

一人ひとりが自分なりの答えを見つけて

上遠野希心(かとおののぞみ)さんは福島県いわき市出身で、地元の金融機関に勤務している。震災時は高校2年生で、ちょうど図書館で勉強している最中だった。夜遅く家に帰ってから翌日にかけて、被害の大きさに気づいたという。

「家に着くまで津波の状況は全く分からなかった。原発がまずいっていうのもその次の日になって知りました。それ以降はどんどん状態が悪化して……。自分の身内にけがはなかったし、家も無事だったけど、状態がどんどん悪化するっていうのは変な感覚でした」

高校卒業後、千葉県で浪人生活をした上遠野さんは、当初は東京の大学に行くつもりだったが、いわきの大学への進学を決めた。

「原発事故の影響で避難してきた方と、いわき市にもともと住んでいる方の軋轢が生じている話をよく聞きました。私が住んでいる遠野町にも、工事のために他県から来る方々の場所を作るという話が出て、国会議員を巻き込んで大もめにもめたことがあったんです。それを千葉で眺めながら、『なんで自分は、当事者としていないんだろう』と。これからの福島、いわきが決まるような一番大事なタイミングでそこにいられないのはすごく嫌で、いわきの大学に行くことに決めました」

2016年に熊本地震が起きたとき、当事者にしか分からないことがある、と改めて感じたという。

「熊本であれだけ大きな地震が起こり、私が経験したことのない火山噴火の心配や集中豪雨もあった。震災といっても、その地域特有の事情や悲惨さ、つらさがあると思う。そこを踏まえた上で寄り添うとはどういうことなのか。一人ひとりが、自分なりの答えを見つけられればいい。一緒に前を向いて行こうよっていう気持ちにみんながなれば、お互いのことが分かって、息苦しさがなくなるのかなと思います」

インタビューを終えて

今回、被災地に行って気づいたことが三つある。

一つ目。考えてみれば当然なのだが、被災地によって被害の程度や種類は異なる。同じ地域に住んでいても違うこともある。原発と津波の被害や影響は大きく違うし、人によってあの日のとらえ方は違う。失ったものが大きく、あの日から前に進めていない人もいるし、逆にあの日の悲しみをきっかけに前に進めた人もいる。ひとまとめで被災地、被災者と考えていた自分がいたことに気づかされた。

二つ目。多くの地域では、地方であるがゆえの課題が再浮上している。例えば少子化や過疎化。震災で地元愛を感じた人がいても、地元は不便で暮らしていけないと考える人もいる。復興に向けた課題も山積している。堤防を作るか作らないかで住民の意見が分裂したり、原発の補償金の問題でもめたり。7年経っても問題はなくならない。

三つ目は、3.11を忘れてはいけないと言われる理由。そこには今を大切にするため、防災のため、二つの観点があると思う。前者は、3.11の悲しい記憶を通じて、今を、自分の周りの人を大切にすることを忘れないようにしようという思い。そのことを、語り部をしていた南三陸の2人が教えてくれた。後者は、同じことを繰りかえさないように防災の意識を高めること。これもとても重要だ。津波をはじめ、自然災害の恐ろしさは絶対に忘れてはならない。

今回、被災地を訪れ、私は3.11について、分かっていたつもりだったけど、何も分かっていなかったと気づかされた。

震災から7年たった今もまだ工事中の町や、福島の帰宅困難区域の荒れ果てた建物を見た。被災した方々の震災当時の気持ちや、今を聞いた。自分が震災を体験したわけではないから全てはわからないけれど、でも自分で東北の歴史を知り、現在を見て、当事者の体験を聞く。そのことは、どこか遠い話だった震災を近くに感じさせてくれた。よく聞く「行けばわかる」という言葉が、すごく理解できた。実際に足を運ぶのは難しいとしても、特に、同じ年頃の若者にこそ、もう一度、3.11とは何だったのかを振り返ってみてほしいと思う。

AUTHOR…鈴木詩織/中央大学法学部政治学科1年。POTETO Media教育事業部に所属し、都議会に関する授業制作を行う。 ユニークな表現を用いた授業プログラムや、イチメンニュースを制作している。

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