2019/03/22

3・11から8年 須田善明・宮城県女川町長インタビュー
「地方の新しい可能性を示していくことが使命」

Written by 朝日新聞DIALOG編集部
Photo by 松本哉人(POTETO)

東日本大震災から8年。津波の被害を受けた沿岸自治体の多くが大きな防潮堤を築くなか、宮城県女川町は「どこからでも海が見える町」をコンセプトに復興を進めてきました。800人以上が犠牲になり、家屋の約7割が失われた町で、「家も地域社会も全部なくなった。だからこそ、みんなが同じ方向を向いてやってきた」と須田善明町長は言います。国際基督教大学4年の高柳美奈子さん、慶応義塾大学4年の古井康介さん、東京学芸大学大学院修士1年の古野香織さんが女川町を訪ね、町のこれまでの歩みとこれからを町長に聞きました。

すべてを失い、みんなで立ち上がるしかなかった

古井:女川町の人口は約6500で、僕が通う慶応義塾大学の1学年の学生数と同じくらいです。小さなコミュニティーですよね。町づくりは誰が担っていくのでしょうか?

須田:町を担うのは、ここに残っている人間や、ここを使っている人間だと思います。人口は、震災前の約1万から3分の1が減りました。建物は約7割が倒壊したので、残りたくても残る場所がなかった人は多い。だから、今この町に住んでいる人は、残るしかなかったか、残ることを自ら選択したか、どちらかです。

須田町長(右)にインタビューする古井さん

あのとき、家も職場も地域社会も、自分の所属するものが一切なくなりました。ほぼ全員が同じ状況に追い込まれた。それでもここに残ることを選んだ人間は、この状況とどう向き合うのかという課題を突きつけられました。みんなで立ち上がらないといけない状況のなかで、「自分がこの場所に対して、どう力を尽くせるのか」というパブリックマインドが必然的に求められました。

被災という共通体験があり、いろいろな先進事例の視察や試行錯誤を重ねていくなかで、「こっちに向かうぞ」という町の方向性が統一されました。そこに向かって、行政はこれ、民間はこれ、とそれぞれが役割を果たしてきました。

海が見える景観は、町の価値になる

古野:昨日、復興の現場を案内してもらいました。昨年訪ねた宮城県南三陸町には大きな防潮堤があったので、駅からも公営住宅からも海が見える女川町は対照的だと感じました。海と共存する町づくりを選択したのはなぜですか?

須田:女川町は、周辺の山を切り開いて高台を造成し、その残土を使って港周辺の背後地をかさ上げしました。かさ上げは前町長がある程度まで考えていて、私が引き継いでから実現に向けて本格的に検討を始めました。町のどこからでも視界が海へ抜ける景観は、他の宮城県内の自治体と差別化でき、必ず町の価値になる。そこは最初から意識していました。

女川駅からの風景。海の手前に見える商業施設は「女川シーパルピア」

古野:町民とはどのように合意形成をしたのでしょうか?

須田:これまでに合計200回、小規模な住民説明会を開いて、私も必ず参加しました。そのうち150回くらいは最初の3年でやりました。小規模だと、町長が質問に直接答えられる。沿岸部の土地は全部津波にやられて、自分の土地もこのままでは使えないことはみんな分かっているので、真っさらなところから「防災も含めて、行政の責任として、こういう風にしていきます」と一貫して同じ説明を繰り返しました。

小さな自治体だから生まれたオリジナリティー

古野:本当に地道に、着実に進めていったのですね。

須田:なぜそれができたかというと、このサイズの町だからです。当時人口16万だった隣の石巻市で同じことをしようとしたら、2年間、毎日説明会を開かないといけない。それは無理ですよ。女川だからできた。

かさ上げも、小さな自治体だからできたことです。面積が狭いうえに、高台造成でたくさん山を切ったから、そこで出た土をもってくるだけでまかなえた。山を切った土を外に搬出する費用もかからずに済んだので、コスト面でも有利でした。ほかでやろうとしても、面積が広すぎて、山を20個くらい切らないとできないでしょう。

大部分が更地になった町の中心部の写真。町長室に掲示されていた

高柳:町民の声は、町づくりにどのように反映されたのですか?

須田:町民全員から意見を募集したというよりは、ワーキンググループをつくって2年間議論しました。町民の100人に1人が直接、復興のプロセスに参画してほしかったんです。町がどうあるべきかを議論しながら、みんなで方向性を決めていきました。だから、駅前の商業施設「シーパルピア女川」にはすごく愛着があって、酒を飲みに行くときは、みんなここに集まってくる。誰かがつくった町ではなくて、俺がつくった町だと思ってもらわないとダメなんです。そうじゃないと、他人ごとの復興になってしまう。

子どもたちへ「まずは自分のために頑張れ」

古野:私は大学院で、子どもたちの社会参加に学校現場がどうかかわっていくべきかを研究しています。以前、東北で出会った女子大学生は、高校時代に地元で震災の語り部活動をしていたけど、やりたいことを実現するために結局、東京で就職しました。それでいいのかな、とモヤモヤするところがありました。地域のリーダーを育てることと、子どもの自己実現をかなえるキャリア教育のバランスを、どう考えていますか?

須田:私は学校の卒業式などでは、「ここに残ることを期待しないし、そのために頑張ってほしいなんて全く思わない。まずは自分のために頑張れ」といつも言っています。頑張って、結果的に町に残ってくれたらすごくうれしいけど、ほかで頑張りたいなら、それはそれでいい。自分の思ったことや夢と真剣に向き合って、全力で頑張ってくれたらいいじゃないですか。今はSNSでいつでも情報発信できるし、オンラインで会話だってできる。「関係人口」という表現がありますが、そういうつながりをどう広げていくかが重要だと思っています。ただ、ふるさとへの愛は持っていてほしいですね。町を愛してもらえるように、私たち大人は頑張らなきゃいけない。

人口減少をただ嘆くのではなく

古井:僕は富山県出身で、中学では郷土史の授業がありました。地元は、若者や子育て世代に都会からUターンやIターンをしてもらおうと必死です。地方の自治体ではそれが当たり前のようになっていますが、女川町では人口減少は死活問題ではないのですか?

須田:女川町は人口減少率が全国1位の自治体です。震災後に減った約3千人のうち2千人くらいは自然減ではなく転出です。転出先の6割は隣の石巻市で、だいたいは女川から車で1時間とか1時間半のところに住んでいます。

私は、人口が減ったことをなぜ悲しむのかなぁと思います。たしかに人口が減ると、財政面などでボディーブローのようにマイナスの影響が出てくる。けれど、問題の本質は、人口が減ったことで生じるさまざまな課題のほうで、人口が減ることそのものではないはずです。減ったことで生じる課題にちゃんと対応できればいいわけでしょう。たとえば町を出た人が、新しい友達を毎週女川に引っ張ってきてくれればいい。女川が面白いことやっているよ、新しい店ができたよと、どんどん人を連れて来てもらえばいいんですよ。人口が減ること自体が問題だったら、人を増やすしか解決策がなくなります。でも、それは一番ハードルが高い。ほかの方法だってあるはずです。

女川町を訪問した古井さん(左)、高柳さん(中央)、古野さん

「定住」の概念も変わっていく

私はそもそも、「定住」の概念も変わっていくと思っています。私が町長になってからの7年余りで、震災がなければおそらく会っていなかった、多種多様な組織や個人とつながってきました。そうしたつながりのなかで、我々の経験を伝えたり、逆に私たちが学んだりして、一緒に何か「事興し」をできる関係ができてきた。そうすると、相手は必ずしもここに定住していなくてもいい。最近、京都や米ボストンに店があるラーメン店が女川で店を開きましたが、彼らはとりあえず3年限定で来たんです。じゃあ、もし3年後にいなくなったら、その間は定住じゃないのか。半年住むのは定住に当たらないのか。わからないよね。皆さんも、本拠地はどこでもよくなると思うんですよ。

古井:本当にそうです。動画撮影の仕事で東北地方へ行くことが多いので、今回の訪問で、東北のサテライトオフィスを女川町に置くのもいいかもしれないと思いました。

須田:おお、いいね! ウェルカム! ウェルカム! ずっとやってきて思うのは、そこなんです。定住って何だろう、という時代が必ず来ると思います。

高柳:女川町に初めて来て、町のいろいろな人と話して、私も移住してみたいと思いました。ただ、バリアフリーの観点から見ると、高台で坂道や階段が多い町は大変です。ずっと住んでいる高齢者のなかには、高台になって買い物に行くのが大変だと感じる人もいるのではないでしょうか?

須田:実際そうだと思います。でも、スーパーはあと1年くらいすれば近くにできる。時の経過で解決されることもあります。一番理想的なのは、「住む人のことを考えていない」とこぼしていた人たちが、10年後に「おれの町いいだろ」と言うようになること。そうなったら勝ちだし、それでいいやって思っています。体感して初めて分かることもあるし……。不満を漏らしていた町民が「いい町だろ」って言ってくれたら、最高じゃないですか。

多様性が重なり合う町の新しい可能性

古井:人口減少は日本のすべての自治体が直面せざるを得ない課題です。女川町の復興で得た「気づき」の中で、全国にヨコ展開できそうなことはありますか?

須田:人口減少の問題では、女川町は日本のあちこちで20年後に起きることを先取りしてしまいました。そして、それをどうしていくのかについて、全員が一丸となって白紙から線を引かせてもらった。たとえば、大規模な土地の区画整理はどこもやりたいけど、権利などの問題があってできないんです。でも、私たちは震災で全部がなくなったから、それができた。女川の経験を他地域にそのまま当てはめることはできませんが、一番大事なことは、現実とちゃんと向き合うことだと思います。

古井:女川町の復興計画はこの3月末で終わり、これから新しい段階に入ります。2030年の町の姿をどのように思い描いていますか?

須田:復興のプロセスを通じて地方の新しい可能性をちゃんと示していくことが、女川町の使命だと思ってきました。実際に、新しい価値はどんどん生み出されてきていると思います。その価値を広げ、維持し続けることが、まず一つの宿題です。これだけの国費が投じられ、いろんな方々のサポートを得てきたからには、それをちゃんと示していく責任があると思っています。

ここに来ると何か面白い「事興し」ができたり、学びがあったりする。女川を訪ねてくれる人や、サテライトオフィスを置いてくれる会社が、それを実際に経験して、この場を高く評価してくれるようになりました。多様性がこんなに重なり合う場所になるとは思ってもいませんでした。このあり方をどんどん大きくして、化学反応を起こしていきたいですね。それによって、私たちも面白がれると同時に、私たち自身も面白い存在になれる。震災後の経験と学びのなかで、パブリックマインド、公共に対する考え方がまったく変わりました。

【プロフィル】
須田善明(すだ・よしあき) 宮城県女川町長。1972年生まれ。広告会社勤務を経て、1999年から宮城県議を3期務める。東日本大震災後の2011年11月の町長選で初当選し、現在2期目。自らも津波で自宅を流され、再建した。父の善二郎氏(故人)も元女川町長。

高柳美奈子(たかやなぎ・みなこ)
国際基督教大学教養学部4年。1995年愛知県生まれ。若者のライフプランニングを支援する株式会社manmaに所属。東京・池袋にある「こどもの王国保育園」でも働きながら、保育の未来を変えることを目指している。

古井康介(ふるい・こうすけ)
慶応義塾大学経済学部4年。1995年富山市生まれ。株式会社POTETO Media代表取締役。若者に政治をわかりやすく届けるメディア「POTETO」を立ち上げ、1日2万人の若者が閲覧するメディアに。現在は、様々な党派の政治家や政党、企業などのプロモーション事業を進めている。

古野香織(ふるの・かおり)
東京学芸大学大学院教育学研究科修士1年。1995年東京都生まれ。大学1年生のときに選挙権年齢引き下げのムーブメントに関わったことがきっかけで、中高校生の主権者教育に関心を持つ。日本シティズンシップ教育フォーラム運営委員。現在は社会科の教員を目指し、教育全般や社会課題について日々勉強中。

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