2009年5月10日
ちょっとこちらへ。そうささやかれ、廊下の角の陰へと袖を引っ張られて、A記者はうろたえたという。入社2年目、大柄で元気がウリの若手サツ回りとはいえ、相手は母親と弟妹の3人を殺した少年の父親。しかも右翼団体の構成員だったと公言してはばからぬ人とあっては、困惑するのも無理はない。「息子のことを猟奇的な殺人鬼のように書いている新聞もあるが、東奥日報は公平ですね。だから、よく読んでいますよ」。小声だが丁寧な口調で話す父親の真意を、にわかには測りかね、A記者はますます狼ろう狽ばいしたそうだ。
3月17日の夕方、青森地裁での出来事だった。八戸市の母子殺害事件の裁判が、小休止を挟んで再開されて2日目。初めて証言台に立った父親が法廷から出てきて、各社がぶら下がり取材を始めたのだが、父親は一言二言感想を語ると、やにわにA記者の袖を引っ張った。それまで小紙が父親と接触したのは、昨年1月9日に事件が起きて間もないころの一度きり。既に何度か取材、報道している社もあり、わが社はむしろ疎遠な方だった。そのわが社の腕章を着けたA記者を見つけ、父親はわざわざ話しかけた。
日付から言って、理由は一つしか考えられない。前々日15日の紙面を父親が読んだからだ。その日の東奥日報は、朝刊特集面に「検察側主張による事件再現」「弁護側・長男主張による事件再現」を並べた記事を掲載した。狙いは「対等報道」にあった。検察側、弁護側それぞれの描く事件像を並べ、比較して読めるようにすることで、どちらが事件の真相かはまだわかりませんよ―ということを読者に示そうとした記事だった。父親がそれを評価したのなら、狙いは案外、的外れでもなかったのだろう。
二重の意味で、重要な裁判だった。事件そのものでいうと、(1)結果の重大性(家族3人をナイフで刺し殺し、放火した)、(2)少年事件(発生当時、長男は18歳だった)、(3)猟奇的な側面(母親の腹部を切り裂いてオルゴール人形を詰めた。自宅のパソコンに、事件によく似た話など、少年が書いた小説のような文章が残されていた)―などである。類似した特徴を持つ事件が近年頻発しており、高い関心を集める極めて今日的な事案と言える。
裁判のあり方も注目された。裁判員裁判では基本的に、おおむね5日以内で連日審理し、結審後すみやかに判決を言い渡すことになっているが、今回は4日間と8日間という2度の休廷を間に挟むため、初公判から判決まで日数は多少かかった。だが、実質審理はわずか6日。裁判員裁判を先取りした短期集中審理方式だったといえる(表1)。計4回にわたって公判前整理手続きも開かれ、争点の絞り込みがされた。職業裁判官が裁くことを除けば、さながら今年5月21日から始まる裁判員裁判の予行演習であった。
その重要裁判をどう報道していくか。ない知恵をしぼって思いついたのは、「裁判員裁判と仮想して報道してみる」だった。裁判員裁判は一般市民が裁く。何をどう審理しようとしているのか、廷内で何が起きているのかを、できるだけわかりやすく提示し、読者に「あなたが裁判員だったら、どういう結論を出しますか」と問いかけるつもりで紙面を作ってみよう。そんなふうに考えた。
具体的に挙げる。まず、初公判の直前には(1)事件の概要、(2)逮捕から送検、家裁送致、家裁での少年審判、検察官送致(逆送)、地裁での刑事裁判に至る司法手続きの流れ、(3)裁判の争点を、1ページにまとめて紹介した。
裁判開始後の方針としては、当然有罪だというような予断を与えないよう、記事の構成や書き方に留意すること、法廷という場になって初めて聞くことのできる少年自身の肉声はできる限り忠実に紙面で再現すること、読者に客観的な判断材料を与えるために検察側・弁護側の冒頭陳述、最終弁論、判決の要旨を最大限掲載することの3点を決めた。また、11人の学生に傍聴してもらい、後日、討論会を開いて、裁判はわかりやすかったか否か、裁判の進行をどう思ったかなどを話し合ってもらうことにした。
学生討論会の内容を詳しく紹介する紙幅はないが、「事件後や裁判中の報道は自分の量刑判断に影響したか」という問いに、全員が「影響はなかった」と答えたことは記しておく。
◆報道への偏見含む裁判員選任の質問
そういう問いを学生たちにぶつけたのは、裁判員裁判における裁判員の選任手続期日当日用の質問票の中に「報道などを通じて事件のことを知っていますか」という設問があるからである。いったい、この質問にどのような意味があるのか。報道によって事件の情報を得ていることが裁判員として不適格だと言うのか。そもそも、「有罪か無罪か、どんな量刑が適当かは、証拠と法廷証言のみで判断するように」と裁判員を納得させることこそ、裁判員裁判における裁判官の最大責務ではないのか。社会への関心が深く、新聞やテレビを通じて事件を注視している人なら、それはいわゆる普通の人だろう。そんな人物を間違った判断を下す危険が高いと見なすような質問自体が、裁判員裁判制度の趣旨にそぐわないのではないか。報道は裁判員裁判の障害だという予断に満ちた質問は、すっぱりと削除してほしいものだ。
ちなみに、学生からは「裁判の進行が速すぎて、何をやり取りしているのかわからないことがあった。後で新聞を読んで、ああ、そういうことだったのかと、理解の助けになった」という意見も出た。事件報道、裁判報道は有益なのだと、自信を与えられた思いがした。
話を「対等報道」に戻す。
「検察側主張による事件再現」「弁護側・長男主張による事件再現」を並べて掲載する―は、裁判前の案にはなかった。白状すると、苦肉の策である。
経緯はこうだ。3月10日の法廷で、検察側が本人の供述調書を読み上げ、少年を追及した。若い記者たちから「すごくリアルだ。書くべきか」と判断を求められた私は、「本人が供述調書の内容を否定している以上、真実だという保証はない。書くな」と指示した。ところが、その供述調書読み上げをもとに、ある新聞社が翌日の朝刊に「殺害状況生々しく」の見出しで、事件を再現する記事を掲載した。それを見たわが編集局同人たちから出た「初めて事件の細部がわかったのだから、書くべきではなかったか」との声に対して、私は「検察側主張のみによった報道は予断を与える。弁護側の被告人質問が終わったら、両者を対等に並べて記事にする」と返答した。それが、くだんの記事に結びついた。
整理部が、体裁としても検察側と弁護側を左右対称に並べてくれたことも「対等」の印象を強めたのか、苦肉の策のわりには、その記事は某通信社の記者からも「新スタイルの裁判報道ですね。本社に紹介したい」と言っていただいた。
新しいのは、並べて見せたのが「事件の再現」だという点だ。「殺意」や「責任能力」など個別の争点について、検察側、弁護側双方の主張を並べるのは従来の手法であり、大きな裁判の報道ではむしろ不可欠だろう。だが、二つの「事件の再現」を並べた記事は、記憶にない。
今回の記事から、二つの事件像を少しだけ描写してみる。
▽検察側の再現 母弟妹が死ねばこんな家族にした父親にも生き地獄を味わわせることができると犯行を決意。テレビを見ていた妹、飲み物に混ぜた睡眠薬で眠らせた母親、1時間後に帰宅した弟を、それぞれ会話も交わしながら淡々と殺した。
▽弁護側の再現 長男は殺人衝動が起こる「冷酷の時期」に入っていた。事件の夜、気づくと妹が血を流し倒れていた。次の記憶は母親、さらに弟が倒れている場面に飛ぶ。母親の腹部に人形を入れた記憶もない。
検察側と弁護側の見方によって「犯行」そのものがこんなに違って見えるのか、と読者の目には新鮮に映ったことだろう。
誤解のないように申し添えれば、父親に批判された他社の記事とて、従来の裁判報道ではごく普通のパターンだろう。東奥日報も「猟奇的」という語を避けたわけではなく、裁判前も裁判中も繰り返し使った。ただ、犯行の底流に少年の心の闇があるだろうことや、その解明が裁判の重要なカギであることなど、必要な場合に限って言及することとし、事件の凄惨さを強調するための表現としては使わなかっただけだ。
裁判員裁判開始を前に、新聞各紙や通信社は記事表現の新たなガイドラインを設けた。主眼は、過度の予断を与えないよう「対等報道」に努める点にある。ならば、改善すべきは記事表現にとどまらないことは論をまたない。おそらく、各社とも実践の中で模索を続けているところか。裁判は文字通りケース・バイ・ケース。被告本人が罪状を認めるか否かで対等報道の“対等”の加減も違ってこよう。小紙の例がどの程度の参考になるか心もとないが、「読者が公平に受け取るように気を配ってみよう」というささやかな試みも「ケースその1」程度にはなるかもしれない。
さて、3月27日に言い渡された判決は、「求刑通り無期懲役」であった。その軽重を論ずるのは、本稿の目的から外れる。しかしながら、判決を示されてみると、疑問の多い裁判だったと言わざるを得ない。
◆厳罰化、集中審理…懸念募る裁判員裁判
やはり、何と言っても、日程が短すぎた。3人殺害という重大事件。被告本人は動機や犯行状況など検察側主張を認めていない。これだけでも、審理に時間を要して当然だ。しかも、被告は少年である。さらに、犯行当時の精神状態が正常だったのかも定かでないとなると、実質審理6日間はあまりに乱暴にすぎる。
青森地裁は、意見が真っ二つに割れた精神鑑定のうち検察側の鑑定を採用し、捜査段階の供述調書も証拠採用し、一から十まで検察側の主張に沿う判決を下した。気になるのは、「重度の精神障害で、発作的に記憶が途切れ、善悪の判断を制御する力が失われていた」とする弁護側鑑定書を青森地裁が否定した理由だ。「犯行時の記憶が欠損している等」という鑑定が「家庭裁判所の認めた事実とは異なる事実を前提としている」というのである。要するに、最大の争点だったはずの長男の責任能力について、「家裁で済んだ話」と片づけてしまった。検察側鑑定医でさえ、「長男には治療で治る可能性がある」と証言したにもかかわらずだ。
◆問われるべき青森家裁の判断
青森地裁と青森家裁は同じ建物の中にあるだけでなく、所長も、判事も、判事補も兼任で、同じ顔ぶれだ。そのために家裁の判断を地裁が問い直しにくい、あるいは問い直す必要はないというなら、明らかに司法制度の欠陥だ。本来、家裁と地裁は上下関係ではなく、まったく機能の違う機関ではないのか。
では、少年審判はどうだったか。青森家裁は、長男の完全責任能力を認めた検察側の鑑定を採用し、「犯行の態様は極めて悪質で、3名の命が奪われた等結果はあまりに重大であり(中略)、少年に有利な事情を最大限考慮しても、保護処分によって処遇する限界を超えている」として、検察官送致(逆送)にした。結果が重大な場合には刑事処分を原則とするとした改正少年法によって、少年犯罪の厳罰化が進んでいるが、青森家裁の判断はまさにその流れに沿ったものだった。それにしても「結果が重大だから、保護処分の限界を超えている」といういかにも短絡的な発想は、家裁の職務放棄、もしくは敗北宣言以外の何であろう。
こうして、青森家裁は安易に少年を逆送し、青森地裁はそれを問い直すこともなく責任能力を認め、刑務所送りを選択……。実質審理6日間という日程が決まった段階で、地裁の方針は固まっていたかのようだ。あとはベルトコンベアの上の流れ作業。少年の心の闇はなぜ生じ、なぜ肉親3人を殺害したのか、深く見つめる気など地裁にはハナからなかったのではないかとさえ疑われる。
少年に厳罰を科すのは間違いだと言っているのではない。どんな場合に死刑を言い渡すことが許されるかについて最高裁が1983年に示した「永山基準」に沿えば、3人が犠牲になった今回の事件は死刑の可能性があったが、検察側は死刑求刑を回避し、青森地裁もそれを妥当と認めた。問題はそこに至る過程だ。少年審判、刑事裁判とも「刑事責任は重いが、責任能力に若干の問題があるから、死刑から少し減刑する」という姿勢に終始した。「責任能力」と「責任」は違う。成人なら「責任能力」を問えば済むとしても、被告は18歳の少年だ。肉親3人を殺すに至った「責任」が誰に、あるいは、何にあるのか、肝心かなめのところが何も解明されないまま法廷は閉じた。そんなことに時間を割いては、裁判員裁判で想定される短期間での結審などできないとでもいうように。
最高裁は全国で行われた過去4年間の模擬裁判を分析し、「裁判員裁判でも真相の解明は審理期間の短縮以上に重要」とする報告書を出した。だが、八戸の事件の裁判に見る限り、地裁では「迅速な審理」優先がもはや現実化している。一方、家裁は、少年犯罪の厳罰化によって「少年を犯罪者にする元凶解明」への熱意を失ったかに見える。
地裁といい、家裁といい、司法はあまりにやせ細ってしまった。裁判員裁判開始後の、さらに“激やせ”した裁判が目に浮かぶ。本誌2月号に書いたように、予想はしていた。だが、本番前に、これほどひどい実態を突きつけられるとは……。今回の裁判では速すぎる進行の中で、小紙は“司法の過剰なダイエット”追及にまで手が回らなかった。裁判員裁判報道の宿題にさせていただきたい。(「ジャーナリズム」09年5月号掲載)
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松田修一 まつだ・しゅういち
東奥日報社会部長1955年青森県生まれ。北海道大学卒。81年東奥日報入社。編集委員などを経て現職。
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