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2012年9月10日10時51分
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【新聞】元兵士たちの「最後の証言」 「8月の定番」を超えた重みと手応え

筆者 小島一彦

 毎年夏、各紙に登場する「戦争もの」。「8月のジャーナリズム」などと揶揄されようと、欠かせない定番記事だ。中日新聞で昨年夏から1年間にわたった「太平洋戦争 最後の証言」も当初は8月の単発企画の予定だった。それが、今年7月までの年間企画(6部構成、計41回)へと発展したのは、地獄のような戦場から生還した元兵士たちの証言の迫力に押された結果だった。

 従来の「戦争もの」では、空襲体験者の記憶や、広島・長崎の原爆、旧満州からの引き揚げの苦難などの話が中心だった。戦場での兵士たちの証言は断片的であり、局地戦に絞った企画が多かった。

 今年は戦後67年。従軍当時は20代の若者だった兵士たちも、80代後半から90代の高齢者ばかりだ。社会部取材班にとって時間という大きな壁と向き合う覚悟が求められた。この連載でデスクを担当した鈴木孝昌遊軍キャップ(現・経済部長)は「(元兵士たちには)この先残された日々を数え、どこかで(自分の戦場体験を)話しておかなければ……という切羽詰まった思いがあった」と振り返る。

 取材の取っかかりは東海地方出身者で結成された「陸軍歩兵第228連隊」の連隊史や名簿をもとに取材対象を割り出す作業から始めた。1942年11月、南方で攻勢に転じた連合軍を阻止するため南洋ガダルカナル島に上陸した2500人のうち、生還者はわずか300人余という悲劇の連隊だ。その生還者も年々鬼籍に入り、少なくなっている。「最後の証言」という言葉に重い現実感が伴う。

 ところが、いざ取材にかかるとすごい手応えがあった。―戦友を見捨てた。人間の肉を焼いて食べた。血をすすってのどを潤した。仲間を射殺した。連合軍の圧倒的な火力を前に、敗走を続ける日本兵。華々しい戦闘で命を失うのではなく、飢餓と熱病で倒れる兵士が多かった。暗く忌まわしい記憶をたぐるように、とつとつと記者に語る元兵士たちは、微に入り細をうがち、その情景を描写した。万感迫ると、声を上げて泣いた。

 インタビューに何日も通うこともあり、一人当たり十数時間に及んだ。取材班は「迫力ある証言が得られ、彼らの発した言葉を、そのまま記録しよう」と考えた。「戦場の音や臭い、熱帯の空気、感覚、それらをリアルに再現しよう」と試みた。それが昨年8月10日付朝刊から「餓島からの帰還〜名古屋・歩兵二二八連隊最後の証言」(5回)として結実した。

 その最終回に、次のような戦友の射殺場面が描かれている。

 ―「歩けない者は自決せよ」。撤退を前に、小隊長が同年兵の荒巻勉=当時24歳、岐阜県恵那市=に命令した。栄養失調で動けず、塹壕に残っていた。「こ、殺さんでくれ」。小隊長が向けた銃口に手を合わせ、命を乞う。はって逃げようとした瞬間、銃弾が後頭部を撃ち抜いた。

 連載第2弾の「戦艦大和の遺言〜中部の乗組員たちの記憶」には、海に落ちた兵たちを救助する場面がある。沈没を免れた駆逐艦から下ろされた救助の縄ばしごに皆が必死にしがみつく。その重みで綱の一方が切れた。「わしのはしごや。大勢つかまるな」。元兵士がそう思ったとたん、もう一方の綱もぷつりと切れ、再び海に投げ出された。「まるで芥川竜之介の『蜘蛛の糸』やった」。

 第5弾の「捨て石の島〜陸軍石部隊と島人(しまんちゅ)の沖縄戦」では、寄せ集めの兵士100人ほどを従えた名古屋市昭和区の伍長、神谷五郎(90)が米軍の戦車にダイナマイトごと体当たりする兵の指名をする場面がある。

 ―暗い洞窟の中で、近くに見える兵から「次はおまえだ」と指名していく。拒む者はいない。(中略)同期の上等兵に突撃を命じた時だった。

 「俺を使うのか。覚えておけよ」と、同じ名古屋出身の戦友はにらみつけた。神谷は一瞬たじろいだが、黙って見送るしかなかった。(中略)神谷は、死を命じた兵隊たちへの慚愧(ざんき)の思いを、戦後ずっと抱き続けることになる。

 第6弾の「果てなき白骨街道〜インパール作戦敗走の記録」では、高熱に倒れた「加藤」という戦友を撤退途中に置き去りにした証言が掲載された。後日、愛知県愛西市の大河内寿満子さん(68)が「私の父ではないか」と名乗り出た。証言したのは名古屋市中川区の秋田豊久さん(90)。取材班の仲介で大河内さんと親族が秋田さんの自宅を訪ねた時の様子が、連載終了後に掲載された。

●朝食前に読めるか! 非難もあった迫真の表現

 同僚を見捨てた記憶にうつむく秋田さんに、寿満子さんは「やっと父の最期が分かりました。ありがとう」と声をかけた。秋田さんは復員後、戦病死した戦友宅を訪ね、遺族に最期の様子を報告してきた。「ただ、加藤のことだけは無理だった。置き去りにしたなんて、とても言えんから」。秋田さんの長く苦しい沈黙が終わった瞬間だった。

 「これが10年前だったら(取材は)違っていたと思う。悲惨な記憶は墓場まで持って行こう、と誰もが思っていたし、家族にも話していなかった。記者が何度も通ううちに、重い口を開いてくれた」と鈴木は語る。6人の記者が取材した元兵士や遺族は合計300人近くに上った。

 戦闘で腸が飛び出した、傷口にうじがわき、それを食べた―など「映像が浮かぶように」リアルに表現した。「朝食前にこんな文章を読めるか」という非難の声もあった。「表現をマイルドにしたら、実名で証言してくれた元兵士に失礼だと思う。だから、言葉はそのまま生かした」と鈴木は言う。

 連載後の反響は大きかった。200通を超える手紙が社会部に届いた。取材を希望する声もあったが、余りに多すぎて、ほんの一部しか紙面化できなかったことを鈴木は悔やむ。連載は今年8月中旬、『祖父たちの告白〜太平洋戦争70年目の真実』として出版された。(「ジャーナリズム」12年9月号掲載)

   ◇

小島一彦(こじま・かずひこ)

中日新聞社編集局編集委員。1951年長野県生まれ。青山学院大学卒。中部読売新聞社(現・読売新聞中部支社)を経て84年中日新聞社入社。文化部次長、放送芸能部長、大阪支社編集部長などを経て現職。

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