写真・図版イラスト・佐々木克司

写真・図版2013年度センター試験の数学Ⅰ・数学A第2問

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 点Pについて考えたい。

 ご存じの通り、点Pと言えば走り回る点である。数学の問題で点Pはだいたい「動く点」として登場するわけだが、特徴として他に何があるかというと、何も書いていないのが普通である。

 問題文に点Pについてもうちょっと詳しく、たとえば「点Pでーす。Pちゃんって呼んでください。千葉県出身の16歳、高校生です。走るのは速いほうですけど、友達からはよくドジっこって言われます。どうしてかな。あ、好きな食べ物は牛乳プリンです」みたいな自己紹介が書いてあったとしたら、どうだろう、がぜん興味がわいてくるし、高校数学がどんなに刺激的になるかと思うが、残念ながら通常そうしたプロフィールは何もない。

 「座標平面上にある点Pは,点A(-8, 8)から出発して,直線y=-x上をx座標が1秒あたり2増加するように一定の速さで動く。また,同じ座標平面上にある点Qは、点PがAを出発すると同時に原点Oから出発して,直線y=10x上をx座標が1秒あたり1増加するように一定の速さで動く」

 これは2013年1月の大学入試センター試験の数学Iの問題の冒頭であるが、牛乳プリンとかそういうものはやはりないのである。あえて特徴を抜き出すとすれば、

 ・座標平面上にいる。
 ・(-8, 8)に住んでいるらしい。
 ・1秒あたりx座標的には2くらい進むつもり。
 ・y=-xの上にいるとなぜか落ち着く。
 ・点Qを見て、どうして私と同時にスタートするのかなと、少し気になっている。

 なんだかむくむくと興味が湧いてきたような気がするが、まあこれは書き方であって、目をこすって問題文を見直せば、あるのはやっぱり無味乾燥な点Pである。性別も年齢もわからない。電話番号やメールアドレス、好きな食べ物はなおさら定かではない。なぜこんな点PやQの来し方行く末を気にしなければならないのかと思うのは普通のことだし、考えれば考えるほど、それこそが正しい考えに思える。こんな問題をがんばって解いたとして、それが何になるのか。数学とはいったい何なのか。

 かつてはそうではなかった。数学がまだ算数と呼ばれていたあの頃、私たちはたかしくんと一緒にリンゴやミカンを扱っていて、それでけっこう幸せだったではないか。求めるべきものがxやyならぬ鶴や亀の足の本数なら、見た瞬間に問題を把握できたし、決して間違うこともなかったのである。

 学校教育を通じ、数学の階段を毎年少しずつ上に登ってゆくに連れて、だんだんこの手の問題、「文章題」と呼ばれるタイプの問題が減ってゆくのは確かなことのようだ。たかしくんやツルカメは姿を消し、点Pやら角度AOCやら積分記号ばかりが幅をきかす。これはいったいどうしたことなのか。我々の数学に、1個70円のミカンはもう戻らないのか。点Pと点Qに点Oを交えた微妙な三角関係について少し考えて、それから問題を解いてもいいではないか。

 しかしどう考えてもそんなことにはなりそうにないので、これはたいへん残念なことに思えるが、たぶんこれは、数学というものの本質的な特徴が、実は文章題とは関係ないからだ、ということではないかと思う。

■ヒツジから数を抜き出す

 そもそも「数学」とはなんだろう。いろいろな定義が考えられるが、一つの答えとして、これらは何らかのパターンを扱う学問である、ということができるのではないか。

 我々の目の前にある世界は、よく考えてみるとたいへん複雑なものだ。人間という存在自体そもそも単純なものではなく、気がつくとy=-xを外れてコンビニに寄って帰ったりするものだが、自分以外の世界だって時折想像を絶することが起きる。物事はこちらに断りもなくどんどん変わってゆき、ぼーっと見つめているだけではまったく予測がつかない。

 たとえば朝起きたとする。あなたは小屋にいるのだが、見ていると、その小屋からいっぱいヒツジが出て行った。やあヒツジだヒツジだ、ヒツジだったなあ、と思っていたら、やがて日が暮れる。夕方になってヒツジがたくさん帰ってきた。あなたは考える。ヒツジが行って、ヒツジが帰ってきた。そうなのだが、ところでそれがどうしたのか。

 「おれよくわからねえ」

 そういうものであって、これこそ「世界」である。

 しかし、もしもそのまま何万年も経過してしまったら、我々は今こうしてネットワークを通じて文章を読んだりはしておらず、いまだにぼーっとヒツジを眺めて生活していたはずだ。つまり、世界は複雑ではかりしれないところがあるが、どうもそれだけではないらしい。そこに何らかのパターンを見つけ、分析し、時には制御することが可能であるらしい。

 たとえば朝、ちょっと早起きする。ヒツジが出てゆくままにしておかず、小屋を出るヒツジ1頭に応じて1本ずつ、地面に小枝かなにかを並べておくことにする。ヒツジ1頭と、枝1本を対応させるのだ。やがて日が暮れる。ヒツジが1頭帰ってくるごとに、床から枝を1本取り除く。そうするとどうだろう。小枝がきれいになくなったり、余ったり、逆に足りなかったりする。いなくなったり、紛れ込んできたヒツジがいたりするか、これでわかるのだ。

 これ自体おそるべき工夫と言えるが、重要なのは、枝の工夫で羊飼いの仕事がやりやすくなった、ということだけではない。もっと画期的なのは「いっぱいのヒツジ」という頭をかかえたくなるものを「床に並べた枝」という扱いやすいパターンで置き換えた、ということなのだ。ヒツジは正直扱いに困る存在である。メエメエ鳴くし、いつまでも草を食べていて引っ張っても動かないし、瞳が横長で怖い。その点、枝のほうはすてきだ。持ち運んだり、保管しておいたり、誰かほかの人に渡したり、半分こしたり、何本か減らしたり増やしたりできる。つまり、この枝はヒツジの本質の一つを抜き出して表した「数」になったのである。

■リンゴは痛んでいるか

 「数」を扱うこと、その方法についてよく考えること、それが数学の営みなのだ。

 小学校の算数の、文章題で出てくる「お話」は本当は数ではない。「お母さんのおつかいで、たかしくんは1000円持って、一つ120円のリンゴと70円のミカンを買いに行きました」というときのリンゴやミカン(それにたかしくん)であるが、これは本来、ヒツジ等と同じレベルの、複雑で混沌とした世界に属するものである。文章題だからわかりやすくしてあるが、もともと世界はさまざまな、複雑でやっかいなディテールを引きずっている。たかしくんはリンゴもミカンもあんまり好きじゃなくて、スキあらばチョコレートとかを買ってやろうと思っているかもしれない。リンゴは痛んでいてお店の人に申し出れば割引してもらえるかもしれないし、ミカンは実は旬じゃなくて冷凍ミカンしか手に入らないかもしれない。

 しかしそれらは、数学には関係ないことである。というより、もともと守備範囲がヒツジを枝に、扱いやすい「数」に変換したところから始まっていると言える。与えられた状況から「数」と「関係」を抽出し、方程式として書き下すことができれば、もう扱いづらいヒツジやリンゴはいない。そこにいるのは軽い小枝に似た、ただのパターンであり、パターンはその本質に従った機械的な操作によって、正しさを維持したまま別の本質を得ることができる。これが数学のすべてであり、冷たいことを言えば、そうして得られた解の正しさと、解が現実世界で役立つかはまったく別の話である。

 母親はリンゴを何に使うつもりか。1頭足りないヒツジはどこに消えてしまったのか。数学にそれを聞いても教えてはくれない。しかし、だからといって数学が無意味だということにはならないのだ。なぜならば、もし数学がなかったら、ぼーっとヒツジを見ているだけの我々が、この世界についてわかることは何もないから、である。

■PがQと出会うとき

 最初に掲げた、センター試験の問題を作った誰かは、文章題では当たり前だった「世界の描写」を省いている。センター試験だから、受験する学生たちの数学的な能力を試したい、という目的はもちろんあると思うが、おそらく、それだけではない。一見してそうした冷たい、無味乾燥なセンター試験問題の向こうに、なにかしら、学生たちにこれを身につけてほしい、これを持って大学にゆき、そして社会に出てほしい、という本質があるはずである。

 それこそが、数学の持つ力なのだと思う。数学は、今自分がどのような世界を映しているのか、またその力がどのように使われ、現実世界で役立てられるのかを知らない。数学はただ、現実世界で動いている何か大切なものの本質をとらえ、それを点Pと点Qの動きに置き換えて表した、その後の話をするだけなのだ、と言ってもいいかもしれない。ヒツジを数に置き換える操作、そしてたかしくんや牛乳プリンは数学の地平の外にあり、数学ができるのは、ただ与えられた数やパターンを操作することだけだ。しかし、数学はそこで力を発揮し、何かを教えてくれる。

 点Pが表す、本当に大切な何かとはなんだろう。何を教えてくれるのだろう。試験に挑むあなたがそれを知らないように、数学もそれを知らない。しかし繰り返すが、それで数学なり、この問題の価値なりがなくなるわけではない。その価値は、数学の外側にいて数学という道具を正しく使う、あなたの中にあるからだ。正しくパターンをとらえ、数学を使うことで、我々はこの難しくて複雑な世界についてようやく何かを言うことができる。

 あなたが生きてゆく本当の世界では、点Pと点Qに代わって、あなたと、今はまだ見ない、でもあなたが一生大切にすることになる誰かが生まれているかもしれない。二人は数学的に理想化された座標平面の上、おのおのの1次関数の上を駆け、さまざまな角度をなすことだろう。あなたとその誰かはそんな数学を唯一の助けとして、混沌とした、しかしだからこそ素晴らしい、この世界で生きてゆく。二人はいつ出会い、そしてどんなものを生み出すことになるだろうか。

 答えは数学の中に眠っている。それを読み解くのは、あなたの仕事である。

     ◇

 おおにし・かがく 作家。1971年生まれ。兵庫県出身、大阪大学理学部卒。3児の父で理学博士。1998年からウェブ上の仮想研究所「大西科学」で雑文、小説を発表。著作に「ジョン平とぼくと」「晴れた空にくじら」「さよならペンギン」など。好きな食べ物は黒ごまプリン。