写真・図版イラスト・上村伸也

写真・図版2013年度センター試験の国語第1問・小林秀雄作「鐔」より

写真・図版2013年度センター試験の国語第2問・牧野信一作「地球儀」より

写真・図版2013年度センター試験の国語第3問

写真・図版2013年度センター試験の国語第4問

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 (つば)というものを、ふとした機会から注意して見始めたのは、ここ数年来のことだから、

 あなたは問題文をもう一度読み始めた。焦っているのだろうか。読んでも頭に入って来ない。鐔、鐔。それがいったいなんだろう。鉛筆を握りしめた手が、痛いほど冷えきっているのを感じる。

 「鐔っていうのは……刀の、つばのことだよね。ほらそこに書いてある」

 と、あなたの横で、ふと声がした。

 その声が、あまりに懐かしい「かれ」の声だったので、あなたは驚いて、思わず目を上げる。

 試験会場。周囲では、一心に鉛筆を走らせる他の受験生の姿。あなたはセンター試験の国語の問題を始めたところだった。ここであまりきょろきょろしていたら、変に思われるだろう。

 いやそうじゃない。そうではなくて。

 そこにいたの?……じゃあ、帰って……。

 あなたは軽く目をつぶると、そっと、口に出さずに返事をする。懐かしい声が、こう答えた。

 「来たよ?」

 まるで、それが当たり前のことのように。そして「かれ」は問題の、文章の続きを読んだ。

 (いま)だ合点(がてん)のいかぬ節もあり、鐔に関する本を読んでみても、人の話を聞いてみても、いろいろ説があり、不明な点が多いのだが。

 それを聞いているあなたの脳裏に、かつてかれが告げた、別れの言葉がよみがえってくる。

 (でも、困ったときは帰ってくるよ)
 (大丈夫だよ)

 それきり現れなくなった「かれ」。どんなに呼んでも現れなかった「かれ」。──ところがいま、「かれ」は現れたのだ。今、このセンター試験の会場に。

 「筆者が合点がいかないんじゃあ、読んでいるほうはぜんぜんわからないよね。そんなの問題に出すって、どうなのかなあ」

 そう言って「かれ」はにこにこ笑っている。いや、あなたにはそのように見えた。「かれ」は幼いあなたが作り上げた想像上の存在、だったはず、なのだが。

 ……で?

 「で、って?」

 で、これ、何なの? わかんないんだけど。

 あなたは訊(たず)ねる。かつてもっとも親しかった親友に、その親しさを込めて。

 「よく読んでみてよ。エッセイだね。登場人物は筆者一人……じゃ、続きを読むよ。聞いてね」

 「かれ」は面白そうに、そして少しだけの優しさをまじえてあなたに微笑むと、あなたの目の前に幻覚を見せた。

 現れたのは小さな、和室のような世界。試験会場の景色と二重写しになるように、あなたの中に現れた幻影だった。そこに紺色の着物のようなものを着て「かれ」が出てきた。

 「かれ」は床の間がある、和室らしきところに座布団を引いて座ると、あなたに向けて一礼する。かれはいま、筆者である小林秀雄の役を演じているのだ。かれはあなたが想像する小林秀雄の、まるで小学校のときの先生のような顔の奥から、一瞬だけいつもの面白そうな笑顔を浮かべると、あなたに向かって一礼して、背後からおもむろに、一振りの、抜き身の刀を取り出した。かれはその刀身を見ながら、話を始める。

 鐔の歴史は、無論、刀剣とともに古いわけだが、普通、私達(たち)が鐔を見て、好き嫌いを言っているのは

 かれは刀の握るところと刀身との間にある、へんな形の板をつまんで続きを語る。確かにそう。これが鐔なのだ。

 日本人の鐔というものの見方も考え方も、まるで変わって了(しま)った。

 あなたは「かれ」の言葉を聞いている。わかる。うん、わかる。「かれ」がそうしてくれて、はじめてこのエッセイに命が吹き込まれたような気がする。書いている作者の、すこし恥ずかしげな息づかいまで感じられそうな──。

13:15

 「シイゼエボオイ・エンドゼエガアル」
 「スピンアトップ・スピンアトップ・スピンスピンスピン」

 あなたは、次の問題に移っていた。そんな奇妙な言葉を演じているのは、やはり「かれ」だった。ただ今は、年配の女性の姿をしている。

 「今日はわざわざ御遠路の処(ところ)をお運びくださいまして……(ええと?)実は……」

 「かれ」は、今度は文中の会話文を演じながら、法要に集まった親戚の前で慣れない挨拶をしている。そして「かれ」が演じている主人公「純一」の顔かたちがどんどんはっきりと、生きいきとしてきた。家を出た父親に反発しながら、一方で父親の存在をかんたんに切り捨てることもできず、まだ何者にもなれそうにない若者。そんな姿が「かれ」を鋳型として、あなたの中に生まれ、会話をする。物語を演じてゆく。

 「純一」はどうしてここで陰鬱(いんうつ)な気に閉されたのだろう。あなたは「かれ」の顔を覗き込んで考える。

 自己嫌悪?

 かれは静かにうなずいた。

 意を決したあなたが、マークシートを塗りはじめる。鉛筆の先が小さくくだけて飛び散って、しかし楕円形のマークは黒く塗りつぶされた。それを覗き込んだ「かれ」は、文章の中の表現を使って、おどけたように、

 「どうだった? まアどうにかなりそう?」

 と訊ねる。あなたが目をしばたたかせて、あいまいにうなずくが、かれはもう、なごりの「純一」の姿を捨てて、あなたの手をとっていた。

 「わかんないよねそんなこと。どっちみち、あとでわかるよ」

 う、うん。

 「さあ、次行こう!」

 その言葉に、解答へのわずかな不安を残しながらも、あなたは、先へと進んでゆく。一歩、また一歩。思考と想像のかなたへと。

13:45

 あひみての後こそ物はかなしけれ人目をつつむ心ならひに

 すぐに意味がとれない古文の意味を想像で補っているあなたの脳裏に、あなたの育った家の近くの、小さな公園の情景が浮かぶ。

 そこにあったものは、ジャングルジムと、滑り台。砂場。二つならんだブランコ。ベンチ。そこであなたは、たった一人で、長い時間遊んでいた。拾ってきた木切れを人間に見立てて、長い時間を過ごした。陰謀渦巻く宮殿で、あるいはまだ経験したこともなかった学園の部活動で、仲間と協力し、意地悪なライバルをやっつけて、恋人とついに結ばれ、もしまだ日が暮れていなければ、別の恋を成就させるために戦う。木切れは「かれ」。頼れる仲間も、突然現れた強敵も、すこし影のある恋人も「かれ」。そこで「かれ」は生まれ、あなたとともに成長してきた。

 かなしさも忍ばんことも思ほえず別れしままの心まどひに

 あなたはそう言って、女の人の姿をして、少し寂しそうな顔をしてみせた「かれ」に見守られながら、また一つマークを塗る。

 悲しさを、どうやって私は乗り越えられてきたのだろうか。そんな「かれ」と別れた日の悲しさを。

14:15

 そうだ。いつだったか「かれ」はそういってあなたと別れたのではなかったか。隣に越してきた友達、その子が公園にやってきた日。小学校から中学校に上がり、一人の部屋で寝ることを何とも思わなくなったとき。初めて好きな人ができて、その人もあなたのことが好きだとわかった日。

 安知此花不忽然在吾目前乎

 いずくんぞ、この花の、こつぜんとして、わが目の前に、あらざるを、知らん、や。

 あなたはたどたどしく読み下して、マークシートを塗りつぶす。

 私の目の前に、いつかこの花が思いがけず現れることが決してないなんて、そんなの誰にも言い切れないじゃないか。

 かれはそれを見ている。

 そうなのだろう。「かれ」はそうしてあなたの前から姿を消し、そしてまた、思いがけず現れたのだった。

 「そうだよね」

 と、そこで。

 「うん、あとは大丈夫だよ、きっと。困ったときはいつでも帰ってくるよ」

 かれは言った。あのときのように。

 「さよなら」

 待って。あの、待って!

 「……さよなら」

 え!?

 あなたはほとんど声に出しそうになって、慌てて口をつぐむ。テスト中。大切なたいせつな、テスト中だった。それも、もう少しで終わる。

 さっきまで……えっと。

 誰なのだろう。さっきまでそこに一緒にいて、この難しい文章を読み解くために、助けてくれていたはずの誰か。それは誰だったのか、いやそもそも誰かいたのかどうか。あなたは軽い喪失感に、首をかしげる。

 (またいつか。きみが本当に困ったときに……)

 かすかな声。目の前にすっかり黒くなったマークシート。

 テストは、もうすぐ終わる。時計を見るあなた。

 まだ時間は少しある。

 あなたはうなずいて、迷いを断ち切った。いまは問題を見直そう。見落としがないか、一つずれて塗ってしまってなんかいないか。いや、それ以前の問題として、本当に正しい答えが出せたのか。

 (きっと大丈夫)

 のんきにそう言う、誰かの声が聞こえた気がして、あなたは自分でも知らないうちに、少しだけ微笑んでいる。

 うん。

 また会えるだろう。

 「かれ」はあなたの中にいて、あなたの一部になっているから。

     ◇

 おおにし・かがく 作家。1971年生まれ。兵庫県出身、大阪大学理学部卒。3児の父で理学博士。1998年からウェブ上の仮想研究所「大西科学」で雑文、小説を発表。著作に「ジョン平とぼくと」「晴れた空にくじら」「さよならペンギン」など。