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(社説)科学の明日 若者よ「ユカワ」をめざせ

2007年01月13日

 ちょうど100年前の1月、1人の日本人が東京・麻布で産声を上げなかったら、戦後の日本は少し違う道筋をたどったかもしれない。

 日本人として初めてノーベル賞を受賞した故湯川秀樹氏である。

 受賞の知らせは、49年11月の文化の日にもたらされた。同じ年の8月、水泳の古橋広之進氏が全米選手権で世界新記録を連発、「フジヤマのトビウオ」として称賛されたのに続く朗報だった。

 からだの大きな米国人にも勝てる。紙と鉛筆で世界をリードできる。二つの出来事は、敗戦でうちひしがれていた日本人に希望と自信を与えた。科学技術を原動力とする日本の復興への歩みは、ここから始まったといっていい。

 湯川氏が授賞式でつまずいたと聞き、「僕のときは気をつけよう」と子供心に思い、半世紀後、授賞式に臨むことになったのが野依良治・理化学研究所理事長だ。多くの若者が世界の「ユカワ」にあこがれ、科学をめざした。

 湯川氏は、原子核の中で陽子と中性子が結びついているのは、未知の粒子が力をやりとりしているからだとして、中間子という新しい粒子の存在を予言した。

 科学者と呼ばれる人たちが欧州で初めて登場したのは1840年ころのことだ。まだ長くはないその歴史を振り返れば、物理学の新しい方法を切り開いた湯川氏の存在はきわだっている。

 そんな科学者を日本で生み続けたい。

 湯川氏は、17歳で英語やドイツ語の専門書を読みこなし、22歳で大学を卒業するや、世界の最先端に挑んだ。「早くしないと、20世紀に入って始まった物理学の革命が終わってしまうという思いも強かったはず」と、湯川氏にあこがれて京大で物理学を学んだ米沢富美子・慶応大名誉教授はいう。

 湯川氏が中間子の論文を書いたのは27歳のときだ。若い力を存分に発揮できる環境の大切さは今も変わらない。

 科学の研究に巨額の資金が注がれる現在、短期的な成果も求められがちだ。しかし、それだけでは時代を切り開くような発見は生まれようがない。

 斬新な発想を生むには、さまざまな考え方を許容する雰囲気も大切だろう。

 湯川氏は、当時の物理学の中心だった欧州から遠く離れていたことが、逆に幸いしたかもしれない。著名な物理学者ボーアは多くの弟子を育てたが、新しい粒子があるとする考えには否定的だった。その影響下にいたらどうだったろう。

 豊かな発想を広げるため、女性や外国からの研究者ももっと増やしたい。

 世界に負けまいと焦りながらも中間子論に取り組んだ2年を振り返り、湯川氏は自伝「旅人」にこう書いている。

 「未知の世界を探求する人々は、地図を持たない旅行者である」「目的地がどこにあるか、まだわからない」

 地図のない旅に出る。若者はその勇気を持ってほしい。そして、そんな挑戦を応援する社会でありたい。

(2007年1月5日 朝刊3総合面)

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