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▲98年9月13日福島県版掲載
 月に一、二回の土曜日の午後に、田村郡三春町の中央児童館が六月から始めた「あそび出前号」。その担当が橋本弘館長(六三)=写真右=と、館員の橋本春夫さん(三二)=写真左だ。
 町広報車に手作りの看板を掲げ、旗も用意して「遊びがみんなを待ってるよ」と、楽しそうなスピーカーで子供たちを集める。いまのところ新興住宅地でカギっ子が多い岩江地区に出かけているが、毎回、数十人から百人を超す子供たちや父母がやってくる。
 車にコマやメンコなどの遊具を積み、「だるまさんがころんだ」などの伝承遊びやアニメ映画などの上映、ブーメラン作りなどの工作を一緒に楽しむ。火おこし、鏡作り、ミニ熱気球と遊びのアイデアはいっぱい。いま予定しているシャボン玉作りでは「針金の洋服掛けを持ってきてもらい、それで巨大シャボン玉を作ろう」と橋本春夫さん。
 元小学校長だった橋本館長は「子供たちが遊びを知らないことに驚いた。集団で遊ぶことにも慣れていない。遊びの体験が昔の『ガキ大将』のような仲間づくりにつながれば……」。そして「たくさん集まる子供たちの期待にどうこたえるかが、大変なんです」。

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▲98年9月11日国際衛星版掲載
 海抜下の塩湖として有名な死海に近いエリコ。この町がパレスチナ自治区となった4年前、日本政府が病院建設を約束した。それが実行に移され、昨年2月末に着工した。その準備段階から今年7月末に自治政府に引き渡すまで、工事事務所長として現場を管理、指揮してきた。
 「ここの夏を二度経験するとは思いませんでした」
 中東一帯に熱波が襲ったこの夏は、日陰でも気温が50度まで上がる日が続いた。日なたに置いた鉄パイプは熱くさわれないほどだった。
 駐在する日本人は、最盛期には28人にのぼった。
 「設計を日本の規格でやったところ、工事に対応できない部分が出てきたので、日本から技術者を呼んで、やってもらったんです」
 暑さで働きたがらない労働者たちをなだめ、すかしながら、自分たちは毎日のように残業して完成にこぎつけた。ゴミさえあれば拾う姿に、建物への愛着が感じられる。
 71床。日本の大病院並の医療機器も寄付され、引き渡しはすんだ。しかし、ほかのどの自治区からも遠く地の利が悪いせいか、医者や看護婦がなかなか集まらず、開業はいつになるか、はっきりしない。そのことに後ろ髪を引かれる思いで、間もなく帰国の途に就く。    (エルサレム・村上宏一)
(ごとう・まこと。1939年生まれ。63年に大林組に入社。上海に4年、そしてエリコへ。美恵子夫人が全駐在員の食事を用意した時期も)

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▲98年9月11日北海道版掲載
 朝焼けがアゼチ岬の草原を染め上げる。望逮鏡をのぞく。釧路支庁浜中町霧多布沖。海面にエトビリカが浮かんでいる。ぜんまい仕掛けのおもちやのようにバタバタど羽を動かし飛んでいく。朱色の大きなくちばし、白い顔に黄色の飾り羽をたくわえる。
 アイヌ語で「美しいくちばし」の意味を持つ、この海烏は漁綱にからめ取られ数を減らしているという。
 「エトピリカ保護基金」を設立した。生態調査・広報活動の輪を広げて町内の繁殖地の復活をめざす。
 海鳥が好きだった。高校二年生の夏、図鑑で見た鮮やかな色彩にひかれ、東京から根室市・落石岬を訪れた。「そのころ道東では五百羽が生息していた。現在は、約四十羽ぐらいでしよう」。環境庁のレッドデータブックでは「絶減危慎種」とされた。「海烏の愛好者は少なく保護増殖に関心が薄い。保襲区を増やしてほしい」と願う。
 熊本県職員や動物写真家を経て十三年前、札幌市から霧多布市に移住した。太平洋を望む高台に民宿「えとぴりか村」を開いた。「エトピリカのそはで暮らしたかった」。四月から八月にかけて霧のない日は毎朝、観祭をする。
 八月下旬、友人の写真愛好家四人に呼びかけて同町給合文化センターでエトピリカの生態を招介した写真展を開いた。写真展は場所を移して、同町の霧多布湿原センターで二十五日まで開かれている。「地元漁師の人たちに足を運んでもらいたい」
 霧多布は漁業の街。海上に広典囲な保護区はつくれないかもしれない。「せめてエトピリカの遊泳地域だけでも綱を入れない保護区を設定してもらいたい」。漁協などに働きかけている。
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