「裕」と書いて「ゆたか」。
「余裕のある生き方ができる人間になれ。行き詰まった時、なんなとなれと開き直れる余裕を持て」と、夫の基治(80)が「豊」ではない字にした。
偏差値競争が激化するなか、裕は、6年の時の担任に勧められて始めたフルートで、音楽の道へ進んだ。中学で吹奏楽部に入り地元公立高の音楽科、京都市立芸術大学へ。音楽家としては決して「エリート」の道ではなかった。
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転機は、大学2年。
学内でオーケストラを作って自主演奏会をしているうち、大勢の人と曲を創(つく)り上げる「指揮者」こそ、自分のやりたい道だと思えてきた。だが、在籍はフルートのコース。月謝を払い続けてくれている両親になんと言おうか……。
躊躇(ちゅうちょ)する裕に、つた子は言った。
「やってみたら、ええんちゃうか」
在学したまま「名古屋フィルハーモニー」の副指揮者に応募したが失敗。ママさんコーラスなどの指揮をしながら大学を卒業し、オペラを上演する「関西二期会」の副指揮者になんとか採用された。
だが、仕事は片づけや使いっ走りばかり。カラオケやドラマのテーマ曲録音の指揮をしながら25歳になった。兄は中学でさっさとピアノを辞め、教員になっていた。友だちも定職についている。
裕の焦りをよそに、つた子はどーんと構えていた。
「トップになんかならんでええ。本を読んでて5番になったんやったら、その方がずっとええ」という佐渡家。
「心配? そんなんない。とにかく音楽一筋なんやから。お金がなかろうが、成功してなかろうが、好きなことをしていれば仕事はいつかついてきます」
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その言葉通り、87年、超エリートだけが参加できる「タングルウッド音楽祭」の指揮者コースの奨学生に選ばれた。ダメもとで応募していたのだ。しかも、そこで小澤征爾とレナード・バーンスタインの目にとまる。
「オペラ歌手になって世界の歌劇場で歌うか、ベルリン・フィルの指揮者になる」。小学校の卒業文集に書いた夢が、現実味を帯び始めていた。(敬称略)