複数の人形を同時に使い、声色を使い分けるいっこく堂は従来の腹話術のイメージを刷新した=東川哲也撮影
東京・東中野の小劇場。いっこく堂は手ぶらで舞台に現れた。
「人形を持たなくても、腹話術はできるんですよ」
独り芝居なのに「共演者」の声が聞こえる。「気の弱い目覚まし時計」や「役人対応のカーナビ」がいっこく堂を困らせる。全く動かない口元に感心していた観客はやがて、芝居自体の面白さに引き込まれる。劇場は笑いの渦に包まれた。
「私も、息子が沖縄に来るたび舞台に行きます。やっぱり上手で面白い。芸をしているのが自分の息子ということを忘れ、夢中になって見ています」
母の玉城(たまき)京子(71)はそう話した。
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沖縄県名護市出身の京子は1960年、1歳上で同郷の吉弘と結婚した。吉弘は結婚と同時に米統治下の沖縄から、神奈川県のタイヤ工場に集団就職。長男出産のため実家に残った京子も1年後にパスポートを持って沖縄を離れた。63年5月に次男誕生。一石(いっこく)と名付けた。
「とても頭の良い、夫の友人にあやかってつけました。沖縄でもめったにない名前。本土にはもちろんなく、病院などに連れていくと『かずいしさん』『いっせきさん』と呼ばれました」
1歳の誕生日を過ぎるころには、ずいぶん話すようになった。
「長男の先生が家庭訪問に来たとき、夜勤明けの夫が押し入れに隠れて寝ていたことがあります。一石が『ここにいるよ』と教えてしまい、後で夫に怒られていました」
大雪のとき、雪の経験がない京子が一石たちを手袋なしで遊ばせ、しもやけにしてしまった失敗もあったが、それ以外は大病もせず、子育ては順調だった。
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吉弘の母が病気になったため、玉城家は沖縄に戻ることになった。68年、一石が5歳のときだった。一家が居を構えたのが極東最大の米軍基地・嘉手納基地のあるコザ市(現・沖縄市)。1年ほど雑貨屋の手伝いをしたあと、ベトナム戦争景気にわく繁華街に食堂を構えた。
「米兵は気前が良くて、45〜50セントの食事代に1ドルおいて、釣りはチップ。非常にもうかりました」
しかし、玉城家の幸せな日々は、長くは続かなかった。(敬称略)