現在位置:asahi.com>教育>大学>紙上特別講義> 記事 お茶と日本人:2(寺本教授)2007年05月19日 芸術文化の象徴も幕末開港期以降は花形輸出品となりました。 * 生活に身近になってきたのは1920年代になってからです。
●おさらい お茶がペットボトルや缶といったドリンク飲料として消費されるようになった現代。サプリメントやファッションとしての意味合いも強くなった。ただそんな時代だからこそ受け継ぎたい、文化的な側面がある。今回は歴史をたどりながら、その形成過程を考える。 ◇ お茶はいかにも日本らしいといわれる飲み物です。平安時代初期ごろ伝来し、日本の文化や精神と深いつながりを持ってきました。が、日本人の生活に身近になってきたのは実は1920年代ごろのことでした。 平安時代から幕末開港期にかけて、お茶は芸術文化としての性格を強く持っていました。全国各地で栽培されていましたが、産業としてはごく小規模でした。 江戸時代、三代将軍家光が「御茶壺(ちゃつぼ)道中」を年中行事にしました。4月下旬から5月上旬にかけて宇治茶の茶壺を「宇治採茶使」に持たせ、江戸に送らせる。お茶が貴重だからこそそれを権威の象徴にし、庶民や大名に見せつけたのです。 それが幕末開港期以降、お茶を巡る文脈は全く変わってしまいます。近代化が遅れた日本は西洋列強に追いつくために富国強兵策を掲げましたが、豊かになるためには外貨を獲得しなければならず、そのための輸出商品としてお茶に目をつけました。横浜で幕府役人の接待を受けたペリーも煎茶(せんちゃ)を好み、重要輸出品としての将来性を予言したというエピソードもあります。 * 明治期において茶は生糸と並んで花形の輸出品になりました。1874年には内務卿・大久保利通が内務省勧業寮製茶掛を設け、茶の生産と輸出を促進。この年、輸出全体に占める茶の割合は37.5%で、生糸の27.4%を上回りました。 10年もたつと、生産量に占める輸出の割合が9割を超える年も出てきます。国内産の茶の多くは海外で飲まれていたのです。最大の輸出先はアメリカでした。 売り込みを図るため、日本は1870年のサンフランシスコ工業博覧会や1893年のシカゴ・コロンブス世界博覧会といった万国博覧会に出品。純日本風の茶店や庭園を造り、着物の女性がもてなすなど文化とセットにして宣伝します。安土桃山時代、日本を訪れた宣教師たちが感銘を受けた、東洋の神秘を宿す茶の湯文化も一緒に伝えたかったのです。にもかかわらずアメリカ人は単なる飲料としてしか茶をとらえなかった。紅茶と緑茶との区別もせず、緑茶に砂糖とミルクを入れ飲んでいたのです。 * 「ボストン・ティーパーティー事件」=キーワード=以降、アメリカはコーヒー文明圏に属し、茶はあまり飲まれませんでした。しかも第1次世界大戦後、インド・セイロンがイギリスの「午後の喫茶」を普及させようと紅茶の大キャンペーンを展開、日本茶は次第に劣勢になってゆきます。 このころから日本の茶業界は、輸出用として生産を伸ばしてきた茶を国内市場向けに宣伝、販売するようになったのです。様々な努力の中で、「日常茶飯事」という言葉があるくらい、茶は日本人にとって身近な存在になっていきました。 アメリカ人との違いとして、日本人には茶を文化としてとらえる基盤があったから、といえるでしょう。ただ「茶は日本人の伝統文化」という発想が広く定着したのも実は輸出期を経た後の1920年代になってからのことだったのです。 (関西学院大教授 寺本益英)
◆キーワード <ボストン・ティーパーティー事件> 1773年、イギリス政府は、経営難に陥った東インド会社を救うために、アメリカ植民地への茶輸出の独占権を付与。これに反発した植民地の人々が同年、ボストン港に停泊していた同社の船を襲撃し、積み荷の茶を海に投棄した。独立戦争のきっかけにもなった歴史的な事件とされる。 紙上特別講義 バックナンバー
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