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紙上特別講義

チンパンジーとヒト:1(松沢教授)

2007年06月09日

「三つ並んだ赤い手袋」を図形と数字を使って表現できるのです。

写真松沢哲郎教授と遊ぶチンパンジーのアイ(左)とアユム(手前)=愛知県犬山市で、伊ケ崎忍撮影
写真チンパンジーが木の種を割るために使った石(右)と、台にした石

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 婚姻という形はないにしても、血縁の「家族」もあります。

 ヒトの祖先は、物事をどのように認識していたのでしょうか。なぜ現在のように見たり考えたりできるようになったのでしょうか。京都大霊長類研究所長の松沢哲郎教授(56)は、ヒトの「進化の隣人」といえるチンパンジーの研究を通して、ヒトの知性や思考の進化の過程を探っています。

 ヒトとチンパンジーの遺伝的な差はDNAの塩基配列で1.23%と分かっています。ウマとシマウマの遺伝的な差は推定で約1.5%。ヒトは98.77%チンパンジーなのです。

 ですから、チンパンジーを「何人」とか「男性」「女性」と表現しますね。

 霊長類研究所=(1)には、6歳から40歳までの男女14人のチンパンジーが暮らしています。

 ヒトとニホンザルは約3000万年前に共通の祖先から二つの系統に分かれました。ヒトとチンパンジーは同じ系統に残り、約500万年前に分かれました。チンパンジーは、サルよりはヒトに近い存在で、「進化の隣人」と言えます。

 チンパンジーの研究を始めたのは、ヒトの「心の進化」を知るためです。骨格は化石に残りますが、知性や認識は残りません。チンパンジーがこの世界をどのように見ているのかを知ることで、共通祖先の知性を推測し、ヒトまでの進化の謎を解き明かせるのではないか。そう考えました。

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 チンパンジーに色や数の概念があるのか。チンパンジーの見ている世界をヒトの言葉で引っ張り出せないか。そんな研究を、アイという30歳の女性チンパンジーと29年間続けています。

 アイは、赤や青、橙(だいだい)、茶など11種の色と、それぞれに対応する「橙」や「茶」といった漢字を覚えました。色を表す図形文字も理解しました。手袋やコップなど身近な品物と、それを表す図形も十数種類分かります。アラビア数字も0〜9まで理解し、小さい順に選べることができますから、「三つ並んだ赤い手袋」を図形と数字で表現できるのです。

 26年前の春、図形文字のボードを持ってアイと研究所裏の土手に出かけました。一面にタンポポが咲いていました。「きれいだね」と1本を折ってアイに見せると、アイは指を伸ばして図形文字の「黄」をつまんで差し出しました。研究所内でもらえる果物のごほうびはありません。純粋に私に色を伝えようとしたんですね。心が通い合った瞬間で、感動しました。

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 00年、アイに息子のアユムが生まれました。アユムも1〜9の数字を小さい方から選べます。コンピューター画面に1〜9が一瞬出て、すぐに白い四角形で隠されても、場所を記憶していて、小さい順に押さえていくことができます。

 他のチンパンジーもアユムと同様、瞬時の記憶能力が発達しています=(2)。

 ヒトの定義は「直立二足歩行を常態としたしっぽのないサルの仲間」で、「言語を持つ」「道具を使う」「家族がある」などが特性だと考えられてきました。しかし、チンパンジーもある程度の言語を理解します。木の種を石器で割るなど道具を作って使うこともできます。婚姻という形はないにしても、血縁で結ばれた、複数の父親が存在する「家族」もあります。

 それではヒトとは、いったいどんな生き物なのでしょうか。次回は、ヒトとチンパンジーの違いについて話します。

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 まつざわ・てつろう 京都大霊長類研究所教授・所長。京都大文学部で哲学、同大学院で心理学を専攻した。専門は比較認知科学、霊長類学など。01年、ジェーン・グドール賞。中学校の国語の教科書(光村図書)に、書き下ろし論文「文化を伝えるチンパンジー」が採用されている。

 ◇キーワード

 (1)京都大霊長類研究所 愛知県犬山市。原猿、サル、類人猿、ヒトなどを合わせた約220種の「霊長類」について、遺伝子解析や生態研究を進めている。京都大に限らず、全国の研究者が利用している。67年に設立され、6月で40周年を迎えた。教員数は39人(06年6月現在)。

 (2)瞬時の記憶能力 チンパンジーが進化の過程で身につけた特殊な記憶力だという学説がある。しかし、松沢教授はヒトとチンパンジーの共通の祖先がこうした記憶能力を持っていたと推測する。脳の容量には限りがあるため、ヒトは言語能力を獲得する代わりにこの記憶能力を喪失したとする。「共通祖先から受け継いだものもあれば失ったものもある。ヒトの知性は右肩上がりに増大したわけではないのです」

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