content current positionasahi.com > ENGLISH > Asahi Weeklytop of English section

白洲次郎が英国英語に込めたサムライ魂

英語の達人に学ぶ

斎藤兆史 東京大学大学院助教授

 英語に対する日本人の苦手意識には、大きく分けてふたつの側面がある。ひとつは技術的な側面。伝えたいことがあるのに、技術がついていかない場合が多々ある。日本語と英語が構造的にかけ離れた言語である以上、何不自由なく意志伝達を図るだけの英語力は、一朝一夕には身につかない。

 もうひとつは心理的な側面。相手が英語の母語話者というだけで気分的に呑 (の) まれてしまうと、本来持っているはずの技がまるで使えなくなってしまう。町中で外国人に英語で道を聞かれ、四苦八苦しながら道を教えたあげくに、"You speak very good English." などとほめられて、逆にお礼など言っているようでは駄目だ。

 日本人の多くは、国際化の時代、英語でやり取りをすることが正しい意志伝達の仕方だと思い込まされているから、その「世界語」が使いこなせる人間に対して自分が劣っていると思ってしまう。だから、英語で道を聞かれた瞬間にも、「『ちょっとすいません』のひと言ぐらい覚えてこいよ、しょうがないなあ」という気持ちになれず、頭に血がのぼってしまうのである。

 つまり、日本人の英語上達の鍵は、まずなによりも意識改革にある。もちろん、体に染みついた劣等感を拭い去るのは、技術面での訓練よりもはるかに難しい。だが、技術を生かすも殺すも心ひとつ、精神修養なしに技芸の完成はあり得ない。今回は、本連載の締めくくりとして、戦後処理に奔走した英語達人の生きざまを手本として、英語を使う際の気構えを学ぶことにしよう。

白洲次郎の生涯と業績

 白洲次郎は、1902(明治 35)年、兵庫県の芦屋に生まれた。綿の貿易で財を成した父・文平は桁 (けた) 外れの豪傑で、旧制中学に通う次郎にも法外な小遣いを渡し、当時まだ珍しかったアメリカ製の自動車まで買い与えたという。

 次郎が在籍した神戸一中は、猛勉強を奨励して高い進学率を誇っていたが、彼はそこでまっとうに英語を学んではいない。自宅に寄宿していた神戸女学院の外国人教師から個人教授を受け、授業中に英語の本を読んで先生に叱 (しか) られたというから、それはそれで大したものだ。学年が上がるにしたがってごう慢の度を増した彼は、卒業(退学との説もある)と同時にイギリスに送られた。

 19 年、白洲次郎はケンブリッジ大学クレア・カレッジに入学し、西欧近世史を専攻する。ケンブリッジ時代の彼の大いなる収穫としてすべての伝記的資料が挙げているのが、貴族の血を引くロビン・ビングとの友情である。白洲はかなりの時間をビングとともに過ごし、キングズ・イングリッシュとともに、それにふさわしい品格と誇りを学んだ。

 父親の会社が倒産したため、留学生活を中断して28(昭和3)年に帰国した白洲は、翌年結婚し、英字新聞の記者として自活するようになった。だが、記者では食えないと知るや、すぐにイギリスの貿易会社に転職、さらに37年に日本食糧工業(のちの日本水産)の取締役となり、1年の大半を海外で過ごすようになった。当時、駐英大使であった吉田茂とも親しくなった。

 白洲が突然仕事を辞めて、鶴川村(現東京都町田市)に引っ込んだのは38歳のときである。だが、これはただの「隠居」生活ではなく、食糧不足を見越した疎開であり、また時代の命(めい)を待ちながら力を蓄えるための休息であった。そして、45年、皮肉にも敗戦直後にその命が下った。終戦連絡事務局参与(翌年次長)として GHQ との交渉に当たるよう要請されたのである。彼の公職就任を要請した人物とは、ほかならぬ時の外務大臣・吉田茂であった。

 白洲はじつによく働いた。本人の言葉を借りれば、「奴隷にされたわけでもないのに、からきし意気地がなく、どんなに無理や難題を吹っかけられても鞠躬如(きっきゅうじょ)としてしまう」政治家や役人が多いなか(「占領秘話を知り過ぎた男の回想」)、彼はキングズ・イングリッシュを駆使して GHQ を相手に堂々と渡り合った。夫人の白洲正子によれば、彼は「毎朝、鎧 (よろい) かぶとに身を固めた武士のように勢いよく」出ていったという。

 白洲がとくに兜 (かぶと) の緒を引き締めて臨んだ相手は、GHQ 民政局長コートニー・ホイットニー准将だと思われる。准将は、会談から帰る際にわざと白洲にコートと帽子を取りにやらせたという逸話からも窺 (うかが) えるように、なかなかの心理戦術家である。GHQ が 「従順ならざる唯一の日本人」として目をつけていた白洲を意識したためか、46年2月13日、新憲法の「マッカーサー草案」を日本側に突きつけた際にも、太陽を背にして座り、威圧的な態度を取った。

 日本側の提案の痕跡すらとどめぬ草案を見て驚いた白洲は、急いでホイットニーあてに手紙を書き、急激な変革が日本にそぐわないことを指摘した。だが、GHQ はそれによっていささかも方針を変更することなく、至急憲法草案を翻訳するよう日本側に要求した。やむなくそれに応じた白洲と翻訳官らは、缶詰状態で草案の日本語訳を完成させた。自分たちの言い分が通らなかったことに対する白洲の思いを、同年3月7日付の彼の手記は次のように伝えている。

 「斯ノ如クシテコノ敗戦最露出ノ憲法案ハ生ル『今に見ていろ』ト云フ気持抑ヘ切レス ヒソカニ涙ス。」

 47年に終戦連絡事務局次長を退任した白洲は、翌年、貿易庁長官に就任、商工省の改組に中心的な役割を果たす。50年には、首相特使としてアメリカへの視察旅行に出かけている。この時の交渉が功を奏し、翌年、第二次世界大戦を終了させるサンフランシスコ講和条約が結ばれた。首席全権は吉田茂、東北電力会長に就任していた白洲もまた全権団顧問として講和条約に参加した。

 この講和会議以降、白洲は2度と政治の表舞台に立つことはなかった。晩年になっても、その気骨を伝える逸話は枚挙にいとまがないが、英語達人としての彼の心血は、戦後処理の一点に注がれたのである。

気合い負けしない心構えを

 職業柄、英語の母語話者がどの程度の英語力をどんな言葉で評するのかを見聞することが多いが、彼らが面と向かって「英語がうまい」とほめるのは、相手が片言の英語を操れるようになったくらいのレベルである。したがって、ほめられて喜んでいるようではお話にならない。逆にほめられてがっかりするようなら、向学心のある証拠だ。近いうちに、「あなたは私よりきれいな(格調高い)英語を話す」などとほめられるようになるだろう。そして、意志伝達に支障がなくなるにつれ、次第にほめられることが少なくなる。

 ただし、きわめて流暢 (りゅうちょう) な外国人の英語を母語話者が例外的にほめることがあるようだ。それは、対等の議論を仕掛けてくる相手に対し、その言葉をほめる余裕を見せることで心理的に優位に立とうとする場合などである。これは、母語話者の特権に訴えかけるという背水の陣で、まさに本気印の戦略だと考えていい。母語話者を本気にさせるほどの英語力は、不断の努力で身につけていただくしかないとして、問題はその先の精神力である。相手が本気になったとたんに気合い負けするようではどうにもならない。

 終戦連絡事務局参与時代の白洲について、こんな逸話が残っている。先述のホイットニー准将が彼に向かって「あなたの英語は大変立派な英語ですね」と言った。軍人の勘が働いたのか、白洲だけは何とか叩 (たた) いておかなければならないと感じたのだろう。

 白洲も負けてはいない。貴族の卵たる親友からキングズ・イングリッシュを伝授された彼にしてみれば、アメリカの軍人あたりに英語をほめられるのは屈辱以外の何物でもない。カチンときた白洲は、すかさず「あなたももう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」とやり返した。残念ながら、実際に英語で何と言ったのかを伝える資料が残されていないが、本連載の3回目に紹介した岡倉天心の機知を思わせる見事な返し技ではないか。

 白洲は、国際会議の場で日本の代表が英語を使用することにすら反対したことがある。サンフランシスコ講和会議において、当初、日本の首席全権・吉田茂は英語で演説をすることになっていた。だが、その2日前になって、「占領がいい、感謝感激と書いてある」英文原稿に腹を立てた白洲は、その内容を修正するとともに、日本語の原稿に改めさせた。吉田の英語がわかりにくかったからだとする説もあるが、駐英大使も務めた吉田の英語にさほどの問題があったとも思えない。おそらくは、白洲の意地も絡んでいたに違いない。

英語力と同時に自信を持て

 すでにお気づきのとおり、母語話者を相手にしたときの白洲次郎の堂々たる振るまいは、彼の卓越した英語力に負うところが大きい。つまり、英語を使う際の技術と心理はお互いに影響しあっている。英語がうまくなれば自信がつき、自信があれば英語がうまくなるという循環論法でもあるのだが、らせん状に上昇する循環を作り出すためには、当然ながらふたつのことをする必要がある。

 ひとつは、英語の技術自体を高めること。この連載で紹介してきたような学習法を実践することにより、ひとつひとつの技術を地道に身につけていってほしい。もうひとつは、得意分野において自分を高め、人が興味を持ってくれるような中身のある人間になること。その分野で世界に通用するような業績を上げれば、いざというときに英語が生きてくる。白洲もまた、英語だけで白洲次郎となったわけではない。日英両国において自分を磨いたからこそ、外国人を相手にする際にもまったくひるまなかった。

 イチローや松井が大リーグで活躍をしている。衛星中継などを見るかぎり、チーム仲間とも談笑しているようだ。会話中心主義を主張する人は、あのように「自然に、楽しく」会話をするから英語がうまくなるのだと言うが、それは違う。イチローや松井だから、あのような英語で済んでいるのである。彼らは野球選手として世界に通用する一流の技を持っている。極端な話、英語が話せなくても、野球場に行きさえすれば、それで仕事ができる。つまり、一流の技を持つことで英語から自由になり、逆に堂々と英語を話すことができるのだ。

 英語の技術だけにこだわっているかぎり、堂々と英語を話すことは難しい。だが、個々の日本人が自分の中身に自信を持つようになれば、英語などまったく恐れるに足るものではない。実用英語技術論の呪縛から解き放たれたとき、はじめて英語達人への道が見えてくるのである。


◆参考文献◆
■ 鶴見紘『隠された昭和史の巨人 ― 白洲次郎の日本国憲法』ゆまに書房、1989 年。
■ 白洲正子『白洲正子自伝』新潮社、1994 年。
■ 青柳恵介『風の男 ― 白洲次郎』新潮社、1997 年。
■『太陽』1998 年7月号(創刊 35 周年記念号)、平凡社、1998 年。
■ 馬場啓一『白洲次郎の生き方』講談社、1999 年。


【お知らせ】『英語達人に学ぶ』は今回を持ちまして、終了とさせていただきます。長い間のご愛読、誠にありがとうございました。(編集部)


Asahi Weekly, March 27, 2005より

朝日新聞サービス

ここから広告です
広告終わり
∧このページのトップに戻る
asahi.comに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。 Copyright The Asahi Shimbun Company. All rights reserved. No reproduction or republication without written permission.