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1. |
遣唐使の時代 |
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舒明2年(630)に始まる遣唐使は、以後約200年の間に20回計画され、そのうち十数回が実行された。その前の遣隋使のあとを受け、強大な中国の王朝と関係を保ち、その進んだ文化を摂り入れるという基本姿勢に変わりはなかったが、時期によって性格にも変化はあり、大きく3時期に分けられる。
第1期は、第1次から第7次(天智8年<669>)まで。朝鮮半島をめぐる不安定な国際情勢を反映して、外交・軍事面での折衝に大きな意味のあった時代である。唐・新羅との衝突に敗北した日本は、天智8年の派遣で唐に従う意向を表明したのち、30年にわたって使いを派遣しなかった。
第2期は、第8次(大宝2年<702>)から第17次(宝亀10年<779>)まで。この時期、日本は唐に対し、20年に1回朝貢する約を結んだとみられ、遣唐使は朝貢の使いとなる。実際、遣唐使の派遣は、8世紀代を通じて、例外的なものを除き、十数年に1回となっている。日本という国号も、このような対唐関係のなかで、中国から承認されたものだった。「日本」は飛鳥時代、隋に対して使われた「日出ずる処(」の系譜を引く国号だが、「日出ずる処」が「日没する処」と対で使われ、対等の意がこめられているのに対し、「日本」のほうは中国を世界の中心とし、その東辺に位置する国であることを自認した国号である。この時期は、円滑な日唐関係を背景に、遣唐使の文化使節としての役割がよく発揮されたといえる。
第3期は、平安前期、第18次(延暦23年<804>)と第19次(承和5年<838>)の時代である。この時期は第2期と同性格だが、派遣間隔が間遠になることに特色がある。留学についても、それまでと違い短期の研修者がめだつ。すでにかなりの文化受容の蓄積が形成された結果である。新羅や唐の商船が唐の貿易品を舶載するようになったことに加え、唐の国内情勢の悪化が重なり、派遣の意義の低下した遣唐使は、9世紀末以降、自然消滅する。 |
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2. |
遣唐使の航路と船 |
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はじめは2隻程度だった遣唐使の船団も、8世紀以降は4隻、500人余りに定まった。
7世紀の使節は朝鮮半島経由で唐に入ったが(北路)、日本が唐・新羅(に敗退したのち、大宝2年(702)の第8次遣唐使からは、五島列島から直接、東シナ海を横断して華中をめざす航路をとった(南路)。南西諸島経由の南島路は、往路で使われた確証がなく、帰りに九州をめざした船が、気象条件に左右されて、やむなくたどったコースである。各船は部材を組合わせた長さ30m、300トンぐらいの船だったと推定されている。うまくいけば、航海は1週間たらずですんだ。
ただ、渡海には遭難が多く、無事生還したのは、平均6割程度だった。その理由は、船の構造や航海術の未熟さに帰せられがちだが、実際はそうではなく、朝貢時期の制約があって、渡海に不向きな季節に往復しなければならなかったからである。
最新の研究によれば、遣唐使船には、竹を編んだ網代帆(のほかに、麻布の帆も装備されていたことが分かっており、後の宋代の中国船とくらべても見劣りしない。布帆は網代帆の上にあって、風向きにより使い分けたとみられる。風がないときは、水夫が艪(を漕いで進めた。 |
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3. |
遣唐使の入京 |
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唐に着いた遣唐使一行は、ふつう3ヶ月から半年をかけて、都の長安または洛陽をめざした。大運河の舟運も使った長旅である。唐の事情で急ぐときは、早馬を用意され、1週間ほどで入京ということもあった。
遣唐使のうち、入京を許可されるのは、主だった使節を含む約1〜2割、船員は船とともに着岸地にとどめられ、留学者のなかにも都にのぼれず、華中の揚州などで学ばざるをえない人も少なくなかった。
入京を許された人々が長安に近づくと、東の郊外、長楽駅で、皇帝の使者の出迎えを受けた。正月には諸外国の使者とともに、皇帝への祝賀行事である朝賀に参列することになる。朝貢の使いとしての性格上、遣唐使はそれに間に合うよう上京し、終わればほどなく帰国することが求められた。滞在の費用一切は唐が負担したが、自由行動は許されず、見学や買物も申請して許可をとらねばならなかった。 |
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4. |
井真成の人物像 |
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墓誌によると、井真成(は生まれつきの優れた才があり、そのため君主の命で、唐に派遣された。唐では中国人としての身だしなみや教養を完全に体得し、懸命に勉学したので、将来役人になったら、かなうものはないと思われたが、開元22年(734・天平6年)正月に、36歳で急死した。時の玄宗皇帝は、その死を悼んで尚衣奉御(という格式高い官職を贈り、葬儀を政府で執り行わせ、長安東郊を流れるさん河の東の原に埋葬したという。
これからすると、真成は遣唐留学生として、養老元年(717)の第9次遣唐使で入唐したことが分かる。遣唐使は厳しい人選の結果選ばれたから、真成は優秀な若者だったにちがいない。そのとき19歳だった真成は、足掛け18年の在唐ののちに倒れた。没する前の年には、第10次の遣唐使が出発、年内に長安に入っていたとみられ、真成が健在なら、この使いと帰国したことだろう。墓誌の最後にある、「身体はもう異国に埋められたが、魂は故郷に帰ることを願っている」ということばは、その意味で胸をうつものがある。
「井真成」は中国人風に名乗った名前なので、その日本名は明らかでないが、「真成」は本名、「井」は日本姓を縮めたと考えられる。入唐者はこのような中国風の名を付けるのがふつうだった。「井」は、葛井(氏か井上氏の可能性が高い。とくに葛井氏は、7世紀末から8世紀前半にかけて、遣唐使や遣唐留学生、漢文に優れた者を出した渡来系の氏族で、名前に「成」の字の付く人も少なくない。井上氏も渡来系だが、葛井氏のように目立つ活動はなく、総合的に判断すれば、葛井説が有力だろう。
葛井氏はもと白猪(氏といい、祖先は5世紀後半に渡来し、文筆技術で朝廷に仕えた。一族に船氏、津氏があり、みな南河内を根拠地としたが、葛井氏はその氏寺、藤井寺が現地に残り、大阪府藤井寺市がその名を現在に伝えている。 |
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5. |
井真成の墓 |
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井真成(の墓誌は、真成が土葬された墓のなかに納められていたはずだが、その墓の場所は、偶然の発見であったため、分かっていない。ただ、墓誌の文面から、墓がさん河の東部にあったことは明らかである。そこで出土地の分かる同地域からの墓誌を集め、場所を推定した結果、郭家灘(の付近とする説が有力である。この地は、遣唐使が長安に入るに先立って、勅使の出迎えを受けた長楽駅から、南東に1キロほどのところで、遣唐使にはいわば思い出深い場所の近くといえる。墓所の選定に、あるいはそのような事情が考慮されたかもしれない。埋葬には、当時長安に滞在中の第10次遣唐使一行が立ち会った可能性もあるが、墓誌自体に日本側の情報は反映されておらず、文章も唐側で作られたとみられる。墓の作りも、墓誌と同様全く中国風で、小規模なものであったろう。
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6. |
唐に学ぶ |
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モノの輸入だけではカヴァーできない生きた文化の受容に貢献したのが、人の交流だった。とりわけ井真成(のような留学生や、留学僧(学問僧)たちの果たした役割は大きい。なかには滞在30年を超える留学者がおり、井真成のような長期留学も珍しくなかった。
留学した学生や僧侶は、唐から衣食住を保障されたうえ、一定の学費まで支給された。一般に中国語学のレベルは低かったようで、最澄(伝教大師)などでも通訳を同行したぐらいだが、長い在唐中にすっかり慣れ、日本語がおぼつかなくなった人もいたことが、8世紀後半に入唐(した僧行賀の例から分かる。留学者は許可を得て、唐国内を旅行することもできた。少なからぬ英才がこうして学んだことは、他の時代にない特色である。それだけに井真成のように、帰国を果たせなかった人々のあったことは、惜しんでも余りがある。
一方、唐からの来朝者がはるかに少なかったことも見逃せない。唐招提寺を開いた唐僧鑑真はとくに有名だが、来日した知識人は多く僧侶で、唐からの外交使節も、日本が唐の冊封をうけなかったこともあって、200年間にたった2回しか来ていない。イラン人など唐以外の人の来日も、よく話題にのぼるが、実際には限られた数にとどまった。人の交流も、モノの場合と同様、日本側の一方的な輸入に終始したといわなければならない。 |
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7. |
和同開珎銀銭と開元通宝の金銀銭 |
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西安の何家村(からは、金銀器や開元通宝の金銀銭、中国の古貨幣、東ローマの金貨、ササン朝の銀貨などとともに、5枚の和同開珎(銀銭が発掘された。この地に邸宅を持っていた貴族が埋蔵したものと考えられている。和銅開珎銀銭は、貴金属を使っている点で開元通宝の金銀銭と似ているが、それらが流通用でなかったのに対し、通貨だったことが異なる。日本国内では銀銭の通用は早くから禁止されたが、その後も贈答、賞賜、まじないなどには使われた。
何家村発見の和同開珎銀銭も、遣唐使が携えて渡唐し、贈呈用にしたものの一部である可能性が大きい。唐への朝貢品リストには多量の銀地金が含まれているが、その一部に銀銭が当てられていたことも考えられよう。和同開珎銀銭は、遣唐使が訪れた洛陽でも、1枚出土している。 |
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8. |
唐の太宗と遺教経 |
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井真成が没した734年の初め、ちょうど長安にいた第10次遣唐使の一員、大伴古麻呂は、唐人から日本に伝えるよう、遺教経という仏典を託された。石山寺蔵の同経奥書に、そのことが書かれている。古麻呂は大学寮の役人として、この遣唐使に加わっていた。この経は釈迦の遺言を記したとされるもので、特別珍しい経ではなく、日本にもすでに伝えられていた。
唐人がこれを託したのは、唐の第2代皇帝、太宗が貞観13年(639)に、勅命によって『遺教経』の普及を奨励した。太宗は、この経の趣旨に感心し、写させたものを貴族や地方長官らに分け与えたほどであった。この経は、こうした政策の結果、日本など遠隔地へも広まったらしく、西域のトルファンからも8世紀前半の写本が出土している。 |
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9. 唐の品々と請来品( |
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唐時代の美術工芸は、書画や彫刻のほか、金銀・青銅・鉄・陶磁・染織・木漆工・紙・ガラス・宝玉といった様々な材料を加工した工芸品など、多種多様な品々が制作され、貴族階級や富裕層を中心として、身のまわりを飾った。日本を含めた周辺諸国は、当時の東アジアにおいて最も強大で最も進んだ国であった唐に対して朝貢を行いながら、憧(れの的でもあった唐の品々を積極的に採り入れた。遣唐使の一行も、唐文化を貪欲に吸収しようと、唐のいろいろな品を入手し、日本へ持ち帰ったであろうことは想像にかたくない。法隆寺献納宝物や正倉院宝物中の作品をはじめ、日本に古くから伝来する唐時代の遺品には、こうした遣唐使の手によって日本にもたらされたものも少なからず含まれていることだろう。これらの請来品は、当時の最先端の品々として丁重に扱われるとともに、模倣の対象ともなり、来日した技能者の直接的な指導とともに、先進文化の吸収と移植におおいに貢献したものと思われる。その結果、いまに伝わる当時の遺品の中には、唐で制作されたものか、日本で作られたものか、にわかに判別しがたいような高水準のものも見られる。唐からの請来品は、いわば古代日本文化の向上になくてはならない滋養豊かな糧でもあった。 |
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1. 何家村(出土遺物 |
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何家村は、現在の陝西省(西安市の南部にある町の名前である。1970年、この地域一画から、唐時代の窖蔵((穴倉)が発見された。そこには陶製の大きな甕2口と銀製の壺1口が置かれ、これらの容器の中に、金銀器をはじめ、青銅器、宝玉、貨幣、薬材など、およそ1000点にものぼる器物がぎっしりと詰め込まれていた。とくに金銀器は、約270点という多数を占め、碗、盤、杯、壺、箱、合子(、錠、装身具といった多彩な種類におよぶ。出土品は、いずれも贅(が尽くされた巧緻(な作風を示し、唐代金銀器の質の高さをあますところなく伝えている。貨幣には、西方のビザンチンやササン朝の金銀貨と、東方の日本の和銅開珎銀銭なども混ざり、唐時代における東西文化の活況を物語っている。薬材では、鍾乳石や丹砂(水銀と硫黄の化合物)、琥珀、珊瑚などがあり、当時の医術あるいは錬丹術の実態を示唆するきわめて貴重な資料を提供している。器物の作風や貨幣などの年代からみると、これらの埋納品はおよそ唐時代の半ば(8世紀中期)頃までに制作あるいは使用されたもののようで、安史の乱(755〜763年)などの戦乱に際して、その難を逃れるために地下に埋納されたのではないかと考えられている。当時の第一級品がそろっていることから、皇族ないしその周辺など、最上流階層の間で用いられていたものと推測される。
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2. |
金銀器の制作技法 |
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金銀器の制作技法には、大別して鋳造((鋳金()と鍛造((鍛金()の2種がある。鋳造は、金属の塊((インゴット)を加熱して液体状に溶融し、それをあらかじめ作っておいた鋳型(に流し込み、冷却して成形する技法である。鋳造には、鋳型や原型の種類の違いによって、砂型、石型、蝋型などがあり、唐時代には主に、原型を蝋で形作る蝋型が用いられた。鋳造は、青銅器の成形に最も普遍的に用いられた技法で、金銀器の場合は、鋳造になるものはさほど多くはない。鍛造は、金属の薄板を槌(などで叩いて徐々に引き伸ばすことによって器物を成形する技法である。金銀は延展性に富み、なおかつ貴重な素材であることから、器物の制作に際しては、鍛造による場合が最も多い。鍛造によって形作られた金銀器の表面には、しばしば各種の文様がほどこされる。とくに唐時代には、精緻な文様を器表に隙間なく刻出したり、宝石をはめ込んだりした例が数多くあり、金銀器の加飾法が最も高度に発達した。小円文を連ねる魚々子(や、鏨(を連続して打ち込む蹴彫(といった技法により、金銀の輝きに独特の味わいが加わり、唐時代の金銀器ならではの作風が形成された。
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3. 舎利(の荘厳( |
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仏教信仰の原点の1つに、仏教の開祖である釈迦の遺骨を、すなわち舎利を崇拝する舎利信仰がある。もともと、墳丘を築いて釈迦の遺骨を埋納し、祀(ったことにはじまり、これが後の仏塔(ストゥーパ)となった。中国でも、仏教が伝来した最初期の段階から舎利信仰の形跡が認められる。唐時代になると、空前の仏教興隆にともない、舎利信仰は極度の盛り上がりを見せ、各地に設けられた仏教寺院では、仏塔の地下(地宮)などの特別な空間に、舎利ないしその代用品を祀ることがしばしば行われた。多くの場合、金・銀・ガラス・香木などといった貴重な素材で制作した容器で幾重にも舎利を保護したうえ、各種の品々を奉納して、舎利を手厚く荘厳した。中でも法門寺(陝西省扶風県)の仏塔地下に祀られた舎利は、古くから釈迦の真骨(本物の骨)の1つと固く信じられ、中国全土から広く信仰された。唐時代には、皇帝の勅命により、麗々しく飾り立てた輿に法門寺の舎利を載せ、都・長安へ運んで丁重に供養した後、莫大な供養の品々を添えて再び法門寺へ奉還するといった大規模な行事も行われるなど、貴賤を通じて熱狂的な信仰を集めた。本展に出品されている慶山寺((陝西省西安市臨潼(区)や法王寺((河南省登封(市)の仏塔地下から発見された品々も、こうした舎利を荘厳するために奉納された遺品の一例である。 |
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唐の白磁・黒釉 |
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白磁とは、鉄分などの不純物をほとんど含まない白色の素地に透明釉を掛け、高温で焼成した白色の磁器をいう。南北朝時代末の6世紀後半に、華北地方において完成された。唐時代に入ると、白磁の作風はめざましく洗練されてゆき、7世紀後半には一つのピークに到達している。国際色豊かな唐時代の貴族文化を反映して、鳳首瓶や龍耳瓶のような西方起源の器形が多く見られ、異国趣味あふれる文様装飾が多用されている。器形は張りのある曲線で構成され、豊かな量感をそなえており、堂々とした威厳と生気に満ちている。唐時代後半になると、白磁の様相は一変し、実用性に富んだ、機能的な器皿が量産され、日用の器として普及していった。
一方、黒釉は鉄分を多量に含む鉄釉の一種で、黒く発色したものをいう。華北地方では、北朝時代の墓からの出土例が確認されており、唐時代には現在の河南省一帯で生産されている。
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陶俑 |
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俑とは中国で墳墓に副葬するために作られた人間の像をいう。材質には陶磁器のほか、木や金属などがある。殉葬の代わりといわれ、死者に仕えるものとされる。動物をかたどった像や、家屋、家財道具の模型をも含めることもある。俑は葬送の制度や死生観、宗教観を色濃く反映していると同時に、生前の生活を再現する側面もあり、当時の生活ぶりや風俗習慣を知るうえで多くの情報を提供している。中国では春秋戦国時代より陶製の俑の副葬が広く行われるようになり、南北朝時代になると中国北部において陶俑の製作がさかんになった。唐時代には絵具で彩色を施した加彩、あるいは三彩の技法による華麗な俑が大量に作られた。唐時代の陶俑は、装飾性豊かで、変化に富んでおり、とくに動きを強調した表現は、さながらアニメーションを見るかのようである。しかし盛唐期を過ぎ、貴族社会崩壊すると、陶俑の製作は急速に衰退していった。
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6. |
唐三彩 |
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三彩とは複数の色の鉛釉を掛け分けて彩った陶器をいう。通常白、緑、褐色の三色が用いられているが、藍色が加わった四色、あるいは二色だけのものも、技法の呼称として三彩と呼ばれることが多い。いわゆる唐三彩は、唐時代前期の7世紀後半から8世紀前半にかけて焼造された。万年壺をはじめとする各種の器物のほか、人物や馬などをかたどった俑がある。国際色豊かな文化を反映して、口部を鳳首形につくった鳳首瓶のような西方起源の器形や、西アジア風の文様が流行した。唐三彩はおもに都が置かれた長安と洛陽の墳墓から出土している。豪華な葬礼を競う厚葬の風習の高まりとともに、墳墓に副葬するための明器としてさかんに製作され、華麗な貴族文化や、貴族たちの生活ぶりを今日に伝えている。安史の乱(755〜763年)を境に唐三彩は急速に衰退し、実用品としての三彩へと性格を変えていった。
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