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「ベールを脱ぐイヴ・サンローラン」と題した写真展が、東京・市谷の東京日仏学院で開かれている。モノクロームの硬質な映像から、このデザイナーが繊細な感受性と同時に力強い意志や存在感をもっていたことが伝わってくる。またこの春には、彼の生前の映像や美術収集品などをパートナーの視点から描いたドキュメンタリー映画「イヴ・サンローラン」が全国で上映された。いま、なぜサンローランなのか?
写真展は、モノクロのポートレートやヌード作品で定評のあったフランスの写真家ジャンルー・シーフが一連のシリーズで撮り下ろしたもの。1971年にサンローランの男性用オーデトワレを発売した時にその広告に使われて話題になったイヴのヌード写真や、黒のレザーコートを着てサングラスにくわえたばこでポーズを決めたポートレートなどが、光とコントラストされた深い黒と微妙にゆがんだアングルで強調されて強い印象を投げかける。そこから浮かび上がってくるのは、傷つきやすく保護すべき天才ではなくて、ふてぶてしい反逆児、異端児としてのイメージだ。
サンローランといえば、パリ・モードのエレガンスの伝統を代表するブランドの一つで、服としての機能性でも最も完成度が高いことで知られている。だがその足跡を振り返ってみれば、いち早く重点をプレタポルテに移してオートクチュールとは無縁だったセーヌの左岸に出店し、パンタロンスーツやピーコートなど当時では女性にはタブーだった服を発表したり、コンテンポラリーアートのモチーフを大胆にファッションに持ち込んだりと、時代の通念への挑戦の歴史でもあった。
この写真展が見せたイヴの姿は、ちょっと意外なようでいて、考えてみればそっちの方がずっと彼の本質に近いイメージを見事に切りとった、といえるだろう。日仏学院の庭に写真を屋外配置した展示の仕方も、斬新で効果的だった。キュレーションを担当したギャルリ21の太田菜穂子さんは「サンローランの服は女性を自由にするスタイルを与えた。彼を写した写真を室内から自由にしてあげるのもいいのでは」と語った。
映画「イヴ・サンローラン」は、そんな彼の栄光と苦悩に満ちた反逆の軌跡とそれが終わった後の喪失感を、彼と50年間も共に歩んだ同性の盟友・恋人だったピエール・ベルジェの語りで回想する切ないドキュメンタリーだった。2人で集めた約730点もの絵画や骨董(こっとう)品をベルジェが決意してオークションにかけて処分する経緯や、それらが置かれていた彼らのパリやマラケシュ、ノルマンディーなどのアパルトマンや別荘での回想や映像がつづられる。
いずれ劣らぬ魅力と才能、そして美しかった2人の若いころの姿や、98年のサッカーW杯フランス大会のセレモニーで開かれた300人のモデルによるショー、02年1月のポンピドーセンターでの最後のショー映像。そんな華やかなシーンもあるが、画面から漂ってくるのは栄光の陰にあったイヴの孤独と苦悩であり、それを彼と共に背負い続け、いまそれを失った後の深い喪失感だ。そして、老い。「考えようと考えまいと、老いはそこにいてドアをたたく」とベルジェは言う。
イヴとベルジェは反逆を重ねながら、間違いなく20世紀の後半を代表するファッションを築きあげた。この時代は、陰に数々の矛盾をはらみながらも豊かな国の人々が最も豊かで輝きに満ちていた時代だった。ファッションはその輝きを象徴するような豊かなクリエーションを生み出した。ベルジェの喪失感と老いの感覚は、そんな時代がもう終わってしまったことと深くかかわっているのだと思う。
もし次の時代のファッションのクリエーションが現れるとしたら、それはサンローランが前の時代と違った以上に今とは異なるものになるだろう。サンローランがいま注目されるのは、もうその時代が確実に終わってしまったことを多くの人が心の底で感じていて、だからこそ、それがなぜ革新的だったのかと改めて見つめ直してみようと思っているからなのではないだろうか。
イヴの姿を最後に見たのは、2002年のポンピドーのラストショーの時だった。年齢よりもはるかに老いたおぼつかない足取りで登場した彼は、それでもどこか不敵さを感じさせる奇妙な笑顔を見せていた。もしかするとそれは、「私の姿を見て次の時代のことを自分で考えてみろ」、という挑戦だったのかもしれない。
写真展は7月31日まで、祝日休館。入場無料。
1947年東京生まれ。72年東京大学文学部社会学科卒後、朝日新聞社入社。事件や文化などを取材し、88年から学芸部記者としてファッションを主に担当し、海外のコレクションなどを取材。07年から文化女子大学客員教授としてメディア論、表象文化論など講義。ジャーナリストとしての活動も続けている。