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かすまず、時代のニーズも追う 久留米絣(福岡)

2011年6月19日10時15分

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写真:伝統柄だけでなくカラフルな生地も多いが、独特の風合いは健在拡大伝統柄だけでなくカラフルな生地も多いが、独特の風合いは健在

 江戸時代末期、10代の少女だった井上伝(でん)によって始められたとされる久留米絣(くるめがすり)。部分的に括(くく)られた糸を藍で染め、白い部分を組み合わせて織り上げることで、複雑な幾何学模様が浮かび上がる。

 「初めは自宅に瓶を据え、糸を染める紺屋(こうや)をしていた農家が、徐々に自前の機(はた)で織り始めた。明治には農家の副業として久留米周辺に広がりました」。そう語るのは創業1898年、野村織物の野村哲也社長(66)。祖父が始めた家業を継ぎ、「手括」以外の工程を今も自前でこなす。

 久留米絣は1877年、西南の役で久留米を訪れた政府軍が持ち帰り、全国で人気が広まったという。城や軍艦など複雑な模様を織り上げる高い技術力を元に、大正、昭和に入り全盛期を迎える。

 1970年代以降は着物の需要が減り、洋装化への対応を迫られる。野村織物も複雑な柄を前面に出すのをやめ、花柄や昔ながらの単調な柄を導入。化学染料によるカラー化も進めた。「博多山笠の法被など残すべき技術は守りつつ、市場に合った洋装向け製品もつくる。時代に合わせて転換したから生き残れた」

 現在は4代目の周太郎専務(36)が、東京や横浜のブランドと共同で、久留米絣の良さを若い世代に伝える服の開発も進める。

 日本の繊維産業はアジアへの技術移転を進めたが、その結果、安い商品が流れ込み産地が壊滅する例も見てきた。久留米絣は外に出ない道を選んだ。「伝統産業は産地として残ってなんぼ。本物志向にかじを切ったからこそ今があるんです」(竹端直樹)

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