現在位置:asahi.com>食>コラム>スイーツの心得> 記事 和菓子の記憶2007年01月12日 私の母はよく、あずきを炊いていた。
お正月、お彼岸、お盆、命日……折々にあずきを炊いては、お汁粉にしたり、おはぎやお団子を作ったりしていた。もちろん甘いもの好きだったけれど、というより、単にあずきを炊くのが好きだったから炊いていたような気がしてならない。
たっぷりの水を張って、火にかけて、静かに煮立たせて、ゆでこぼすこと数回。「何度もゆでこぼして、アクを抜くのが大事なの」。徹底してアク抜きにこだわった。
ある時、火にかけたまま急に出かける用ができ、留守居役の私が気を利かせ、やわらかくなった頃合いを見計らって味をつけた。帰宅後、母は味を見る前に色を見て、「これじゃだめなのよ。澄んだ色までアクを抜かなきゃ。やぼったいになるから」。母の餡(あん)は確かに透明感のある薄紫色で、すっきりした味だった。
早く仕上げたいから、気持ちがせく。何度もゆでこぼしている気持ちの余裕が持てない。以前、辰巳芳子さんが雑誌で「煮炊き物は、待つことの大切さを教えてくれる」と書いていたけれど、本当にその通りと思う。
あずきを美しく炊き上げることに喜びを感じていたのだろう、母は。自分で炊いた餡で作るおはぎや団子を食べる以上に。
そんな母の影響で、私にとっての良い餡とは、アクの抜けていることが第一条件である。晒せばよいというわけでもないのは重々承知。けれど、つい餡の色を見ている自分がいる。そしてお汁粉なら、さらりとしたのが好き。
時折、和菓子屋さんのぜんざいや懐中汁粉を食べる。ほんの1、2年前まで、「懐中汁粉なんて、いまどき食べる人がいるのだろうか」と思っていたけれど、人から勧められて、なかなかに良いものだと気付いた。まず、風情がある。上質な和の器、椀か碗を使えば、ちょっとした料理屋気分だ。しかも、気の向いた時にお湯を注ぐだけでいい。熱いところをふうふう言いながら、時間をかけていただく。その時、そこには、饅頭(まんじゅう)や練りきりにはない時間が流れている。これは楽しい。
和菓子の楽しみとはなんだろう、と最近思う。「記憶かもしれない」と、近頃の私は考える。フランス菓子に興味を持って、一生懸命知識をつけて、食べる経験を積んで、発見と感動を繰り返してきた。少しずつ前へ進んでいく自分がうれしかった。それとは逆に、和菓子には、自分の眼と気持ちを過去へと戻してくれる側面がある。和菓子の中に、自分の記憶であり、日本人という民族の記憶が詰まっているからだ。何も考えずに食べてしまえば、それで終わり。だが、菓子から想起される幼い頃の記憶や母の言葉、何かに書かれていた事柄を頭の中で手繰り寄せていくと、一個の和菓子に「日本人が何を考えてきたか」が潜んでいるのが見えてくる。
洋菓子をおやつに育つ世代が増えた。和菓子に親しむことは、自分の知らない日本人の記憶に触れることなのかもしれない。たとえば、「花びら餅」。日本人の誰もかもが、正月に花びら餅を食べて育ったわけではあるまい。が、この菓子には和菓子の一つの道筋が厳然と存在する。「歴史観のない人間に、真っ当な料理は作れませんよ」と私に語った料理人がいる。政治において歴史観が問われるのと同じ。菓子を味わうにも、歴史観が欠落していたら、本当の味わいには到達できないと思う。
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