2010年10月15日付 朝日新聞東京本社夕刊から
入院中の子どもと遊ぶ坂上和子さん
東京都新宿区の病院にある小児病棟。子どもたちは、おもちゃをかかえて週末にやってくる「遊びのボランティア」を楽しみにしている。坂上和子(56)が19年前、この活動をはじめた。きっかけは、ある男の子との出会いだった。
介護と育児のため、坂上は、泣く泣く保育士の仕事をやめていた。同僚の子どもがいる病室に行ってあげて、と友達に頼まれた。病院は自宅の目の前にあるのに、気が進まない。感染が命を奪うような重病の子どもという。私は何ができるの?
病室に入る前に手を消毒し、ガウンを着る。こわごわ戸を開けると、「ゆっくん」が待っていた。坂上の次男とほぼ同じ1歳半で、悪性リンパ腫というがんだった。
ベッドからこちらを見たゆっくんは、にっこり。坂上はほっとした。母親同士の話がはずみ、坂上が週に何度か弁当を病室に届けるほど仲良くなる。
ゆっくんと友達になり、よく遊んだ。立体の飛び出す絵本も、戦隊ヒーローの人形も大好きで、よくしゃべり、笑う。ほかの子と変わらない。でも遊びには飢えているなあと思った。
ゆっくんは4歳で亡くなる。
坂上はショックで告別式に行けなかった。翌年、区の訪問保育の仕事につくと、ゆっくんと同じ病棟に入院した区内在住の子どもと親から依頼がきた。
ゆっくん、力を貸してね。
見慣れた病棟の窓を見上げ、そう語りかけた。
◇ ◇
ゆっくんが遊びに飢えていたわけがすぐ分かった。乳幼児の発達には、遊びを通じた刺激が大切だが、病棟には驚くほど少ない。看護師は忙しすぎて、遊んであげる余裕はない。
坂上たちが布で作った魚釣りゲームを持ち込むと、子どもたちから歓声があがった。人形劇、パズル、カード。むさぼるように遊ぶ。
だが、病棟の訪問は、区民の子の退院で終わる。親たちから、続けてと懇願された。病気の子に、区内も区外も関係ない。坂上は1991年、保育士仲間を誘い、週末にボランティアで病棟に通うグループを作った。
他の病院の親からも頼まれ、活動は広がっていく。忙しくなり、それが一因で離婚もした。社会福祉などを学ぶために保育園の非常勤で働きながら大学に通い、NPO法人も作った。活動資金は不足しがちで、生活にも窮した。
でも、やめるわけにはいかなかった。坂上には、ゆっくん、そしてがんで亡くなっていった子どもたちとの、忘れられない出会いと別れがある。「一緒に笑いながら遊んだ思い出が、続けようと思わせた」
坂上を支えたもう一つは幼少時の体験だ。7歳で母が死に、父は蒸発。カトリック系の施設で初めて一人の人間として扱われた。どの子にも献身的だったシスターを思えば、泣いて治療に耐え、自分を心待ちにする子どもと親を放り出せなかった。
この夏、病院の近くに部屋を借りた。親がひと息つき、通院中の子が遊び、ボランティアが集まる。家賃は、自分の人件費を削って払っている。
◇ ◇
斉藤淑子さん
ゆっくんの本名は「幸彦」。養護学校の教員だった斉藤淑子(58)の次男だった。
息子の3年半の闘病に終止符が打たれ、斉藤は職場に戻った。以来ずっと、病気や障害を抱える子どもの教育にかかわり続けている。大切にしているのは、楽しい「いま」を作ること。あのとき、病室でうろたえる自分の目の前で、坂上がゆっくんにしてくれたように。
この春から、東京・築地にある国立がん研究センターが職場になった。小児病棟にある学級「いるか分教室」の先生だ。
つい最近、小学校高学年の少女が分教室で詩を作った。
| 教室に入ると聞こえてくるのはみんなの笑い声 |
| 教室に入ったしゅん間 |
| 前の自分と全くちがう人になってしまったかと思うくらい |
| 明るくなれる |
少女は昨年末の入院時には、言葉も少なかったときく。病気で視力が落ち、厳しい治療も経験したのに、この明るさ。
「子どもの力、教室の力はすごい。もっともっと楽しい経験をさせてあげたい」
(上野創)