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医局の窓の向こう側   


燃え尽きたら

2007年07月03日

 「俺さぁ、もう、ほんと、辞めようかな」どんぶりに箸を突っこんだまま、T先生が顔を上げて宙を見つめた。

イラストイラスト:木村りょうこ

 げ!かなりキテルよ、こりゃ。

 同級生のM先生から「婦人科のT先生が弱ってるんだよ。一発、開業の話でもして元気付けてやらなくちゃいかん。真田、手伝え!」と言われて、本日、職員食堂にて450円也のA定食を食しつつ、抑鬱気味のT先生のお話を聞いている。食欲のないT先生はうどん。M先生は何も聞こえないような顔をしてばくばく食べている。

 「産婦人科が大変だというのは、あちこちで言われてますよね。で、ご開業を考えてらっしゃるってことですか」真田、腰が引けた物言い。T先生の精気の抜けた顔を見ると、なんと声をかけてよいのやら。

 「いや、もう医者を辞めようかと思って」

 ぼふぉっ!ぐふぉっ!とM先生がむせる。

 「何言ってるんですか!そんな後ろ向きなことでどうするんですか!!人生は攻めてなんぼ、でしょう!!」思わず、テーブルの下でM先生の足を蹴り上げる。抑鬱傾向の人に叱咤激励してどうする?

 「攻められているのはこっちだよ……」T先生はとうとう箸を放してしまった。

 T先生が産婦人科を選択したのは、数ある科の中で唯一「おめでとうございます」と言える科だったからとか。暗くなりがちな病院の中で、産婦人科だけはピンク色の壁紙で、赤ちゃんの泣き声がして、幸せそうだったから、と。

 「忙しくても、お産が重なっても、なんていうのかな、なんか、うれしかったんだよ」T先生は両手の手の平を差し出して、赤ちゃんをその手に乗せるような仕草をした。大きめのごつい手はとても温かそうだ。

 「ありがとうってさ、ありがとうって……」T先生はそのまま両手で顔を覆ってしまった。泣いている。

 M先生が目配せしてきた。(な?かなりキテルだろ?)

 近隣の病院がお産を辞めてしまったことで、当院産婦人科へお産が集中している。今まで以上にハイリスクなお産を担当しなくてはならず、数も増えた。問題も発生した。

 T先生は今、訴訟を抱えている。それ以外にも訴えるの、訴えないのという話もある。激務のうえに、訴訟関連の面接が続いて、T先生は心底疲れた様子だった。

 「仕事はね、仕事はがんばれるんだ。がんばっていたんだ。でも、何か変わってきている」T先生がつらいとおっしゃったのは、仕事の多忙さよりも、患者の態度だった。

 高齢初産が当たり前になってきている。

 「みんなそれでちゃんと産んでいるんだから大丈夫でしょ!」。自分の体力の衰えやリスクの高まりは無視して「すべてうまくいって当たり前」を要求する、とT先生はため息をつく。

 「お年になっての初産ですから、若い方の出産に比べると大変になります」なんて言ったらものすごい勢いで反発される。気に入らないことは「医療ミスだ」と騒ぎ立てて、二言目には「訴えてやる!」。

 そもそもお産にはリスクが伴うものなのに「うまくいって当たり前、何かあったら医療ミス」の考え方がある。医療とは患者の体に介入することだ。100%安全はありえない。それを患者が忘れ始めている。T先生を追い詰めているのは、考え方の変わってきた(一部の)患者さんたちのようだった。

 「私は悪くない、悪いのはおまえだ!」他罰的に語ることで、被害者の殻に閉じこもる。行き場のない患者をT先生は義務感だけで受け入れ続けてきた。誰も言わないけれど患者の態度は昔と大きく変わっている。権利意識の高まりと言えばそれまで。ただ、以前の温かい人間関係は薄れてしまった。「私が引き受けましょう」と言い続けたT先生がつぶれていく。

 「近いうちに飲み会ってことでも……」M先生がトレーを持ち上げた。午後診へ向かう足が重い。

筆者プロフィール

真田 歩(さなだ・あゆむ)
 医学博士。内科医。比較的大きな街中の公立病院で勤務中。診療、研究、教育と戦いの日々。開業する程の度胸はなく(貯金もなく)、教授に反発するほどの肝はなく、トップ研究者になれる程の頭もない。サイエンスを忘れない心と患者さんの笑顔を糧に、怒濤の日々を犬かきで泳いでいる。
 心優しき同僚の日常を、朝日新聞社刊医療従事者向け月刊誌で暴露中。アサヒ・コムにまで載っちゃって、少し背中に冷たい汗が・・・。

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