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広島の声

西村孝雄さん 直接被爆・距離1.7km(南観音)
被爆時7歳 / 千葉県船橋市3445

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  広島原爆被爆から六十年 <運命の五秒間>(高校卒業50周年記念誌に投稿)

  一九四五年八月六日午前八時十五分、私は外に出て飛行機一機を確認して玄関の三畳の間 に上がった、将にその瞬間であった。振り返って見ると、外はどす黒く赤い光の世界でした。
 どす黒く赤いというのは、光の中に土が舞い上がった為だと後で分かった。ほんの五秒家 に入るのが遅かったら私は全身やけどを負い、恐らく短い命だったと思う。運命のいたずら か、命の有難さを感謝しながら、あれから六十年生き永らえている。

 私の住んでいるところは、爆心地より三.〇km離れた南観音町の三菱造船の社宅でした。
 あの時私は、爆風で押しつぶされた屋根の下から、母と妹二人の四人で這い出し、やっと の思いで外に出た。見ると母の喉はガラスの破片で切り裂かれ、中の骨が見えており、直ぐ 下の妹は腹から出血している(後で分かったことだが、ガラスの破片が腸の傍まで刺さって いたそうだ)。隣のおばさんに三角巾で応急処置をしてもらい、家族四人は近くのレンコン畑 など体の隠れる所を探して逃げ回った。昼近く父が会社から戻り、怪我をしている母と妹を 会社の医務室に連れていって手当てをしてもらう。兄二人は前の日から山口のおじさんの所 に遊びに行っていて、難を免れたと思う。何故なら、兄たちは飛行機の音を聞くと直ぐ外へ 行って空を見回すから。直ぐ広島に帰れない兄に代わって、次の日から炊き出しのおにぎり やカンパンをもらいに行くのは私の仕事だった。一度は道草を食って遅れて着いたため、炊 き出しを貰えないで、ひどく叱られたこともあった。

 幸いなことに、怪我人は出たが、家族の中に犠牲者はなかった。近所の人の中には、屋根 の下敷きになったり、火傷が原因で亡くなった人が結構おられたようでした。近くの小学校 の校庭が、にわか火葬場になり、数多くの死体に夫々薪を重ねて焼くだけなので、否が応で も死体の様子が良く見える。また昼といわず夜といわず、焼かれる臭いが潰れた家の中に遠 慮なく入ってくる。

  そんな状況の下で、十日か二週間位経ったでしょうか、このままでは危ないと思ったので しょう。急遽母の親戚を頼って青森県の片田舎に疎開することになりました。広島から青森 まで当時どれくらいかかったのか未だに覚えていない。当時の汽車の乗客は、殆どが兵隊さ んで一般客はほんの少ししか乗れませんでした。記憶に残っているのは、回りの兵隊さんた ちがとても親切な方たちで私達に席を譲ってくれたりして、とても助かったことです。また、 上野駅でのことですが、地下道や駅の構内の至るところに、今にも死にそうな傷病兵や浮浪 者が所狭しとたむろしています。私達も次の汽車の出発まで、その中で野宿することを余儀 なくさせられました。やっとの思いで青森の山奥の田舎に辿り着きました。
 青森の田舎と言えども戦後の様子は変わりありませんでした。食べるものについては、夫 々の家が自分達の食い扶持が精一杯で、われわれよそ者に回してくれるものは殆どありませ んでした。そういった中でも、「捨てる神あれば、助ける神あり」で、我々の事情を理解して 同情してくれる親切な方もおられました。住む所は、当座の間、馬小屋を改良した所に住む ことになりましたが、便所が外にあるため、夜中用足しの為暗闇を通っていくときに、幻の 亡霊をみて、大声を張り上げて戻ったこともありました。これも悪夢のような被爆体験の所 為ではないかと思いました。
 人の運命は本当に分からないものだとつくづく感じました。  

 私は神戸に生まれて、二歳で小樽に引越し、五歳で今度は広島に引越しをしました(父が日本 郵船勤務のため港々を転勤)。父の広島転勤が、一年遅かったらこの様な災難に遇わなかった でしょう。
 この原爆被爆のために、我が家の犠牲者は一人もいなかったのですが、父は六十歳、母が 七十四歳、長兄が五十七歳、次兄が六十四歳で死亡と、母の七十四歳以外は皆短命で、しか もその死因がガンであることを思えば、被爆の影響は十分考えられると思うのです。
 数々の貴重な経験を今考えて見ると、あの五秒間の運命が私にとって、生か死かを決した ものであり、本当に不幸中の幸いにしてはあまりにも偶然過ぎると思われ、ただ神に感謝す る以外に表現する言葉はありません。
(2010年送付、取り替え)