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広島の声

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萩原俊雄さん 直接被爆・距離1.7km(白島九軒町)
被爆時6歳 / 東京都千代田区11505

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。     「被爆と私の人生」

 私の人生の原点は、昭和二十年八月六日、広島への原爆投下から始まる。私は六歳の時、爆心地から一・七キロ、広島市白島で被爆して、父をはじめ多くの家族が犠牲となった。
 当時の母の日記には「昭和二十年八月六日午前八時十五分、敵機B29来襲す。なんの警報もないのに、突然、新兵器の空中爆発により被爆」「主人は全身火傷して翌日職場で死亡、母も全身大やけどで後日死亡、姉親子、妹も黒コゲになって死んでいた。主人のもとに行き足の一つもなでてあげたいと思うけれど、重傷の母と子供三人いるので、どうすることもできない。本当に主人にすまない。― 無念の泪がほとばしる。私が泣くのを見て子供達がシクシク泣いている。私は子供が休んだあと、一人で思い切り泣く」。

  二十九歳の母は、学童疎開によって命が助かった姉の子供二人と、幼い私と妹弟の三人を抱え、あの焦土に立ち、どんなにか懊悩し、悲惨なときを過ごして生きてきたか、それを思うと今も胸がつまり涙がこぼれる。そのころの母の「うた日記」には、

 母は子を子は親を呼びお互いに ひしと抱きて死にゆきしらむ
 苦のあまり己れが命を絶ちくれと 母はのらせり悲しき極み

 母の姉親子が被爆して死んでいく様子、そして、祖母が火傷を負った全身にウジ虫がわき、無惨のなかで死んだことを詠んだものである。
 あの日、夫、母親、姉親子、ついで妹までも一度に失った若き母の悲痛な嘆きと涙は、いまなお忘れることができない。

 嬉々としてたわむれる我子見るにつけ 父なき思えば涙こぼるる
 幾人かとびこみしと言う滝つぼに 我が身思いて人ごとと思えず

 これは、母が幼い私たちと死に場所を求めていたころの詩である。
 その後、医師も病院もない焼け野原で、私たちは、数々の原爆病を発症(白血病、肝臓障害、造血機能障害等)して、苦痛の日々を過したことを覚えている。
 やがて、父亡きあと、子供たちを育てるために、母は意にそまぬ再婚をしたが、酒乱の養父との不和と生活苦から、私は小学校卒業後、大阪に丁稚奉公に出ることになった。

  十七歳で帰広して美容材料商を始め、貯めたお金で上京、東京の専門学校を卒業して念願の大学に入ることができた。その間、キャバレーのボーイ、機械工、土木作業員など三十種類もの職業につきながら資金をつくり、経営コンサルタント業を開設したが、原爆の後遺症によるひどい肝臓障害や胃潰瘍、気管支喘息等、数々の病気体験から、東洋医学を学び治療を実践、その体験をもとに健康産業を創設した。

 こうしたさまざまな苦難に耐えてこられたのも、「子どものため」と口ぐせのようにいいながら、貧しい生活と原爆病に耐え、「子どもが健康で幸せに育つことだけを楽しみに、かあさんは生きている」と云って、ABCC(原爆傷害調査委員会)に勤務しながら懸命に働き、私たちを育ててくれた母の恩に報いたい、強い一念があったからである。
 平成九年、NHKテレビの「被爆の言葉」のロケ出演のため、五十年ぶりに広島市白島の被爆地に立ったが、当時の惨禍が走馬灯のように甦りつらいひと時であった。
 「皮膚がずるむけたままの無言の行列」「川に漂う無数の死骸」「防火用水に顔をつっこんだまま息たえた人々」「幼子を抱いて火の海の中に亡霊のように立っていた夫婦」「学生の息子が家の下敷きになり、火の迫る炎の中で、”お母さん早く逃げて”…と叫ぶ声を背に避難してきて”目の前で焼け死ぬ息子を助けられなかった”と、悲嘆の中で号泣するおばさん」「全身火傷で”水をくれ””水をちょうだい”と云いながら死んでいった人々」「火傷が腐りウジ虫がわき、早く太田川に流してくれと云いながら死んだ祖母…あの時、ふとんにふせて慟哭していた母」。

 世界のジャーナリストたちが、二十世紀の重大ニュースの第一位に広島・長崎の原爆投下を挙げているが、世界唯一の被爆国であるわが国民のどれだけの人々が、原爆について認識し、意見や主張を持っているであろうか。殆どの人が遠い過去のことであり、いまの生活、人生には関係がないと思っているようである。しかし、まぎれもなく日本国は、人類最大の事件、原爆投下された被爆国である。生き残った私たち被爆者は、後遺症に悩まされながら、”あの日、多くの被爆者を助けられず、自分だけ生き残った申し訳なさ”に今もなお、心の傷の中で生き続けている。

 私は遺書として主張しておきたい。
 広島・長崎の原爆投下はもとより、東京をはじめ日本中の大都市に対する空爆による死者のほとんどは無辜の民であり、女子・子供・老人であった。まさに人類史上最悪の無差別大虐殺であり、あきらかに国際法上の違反である。
 日本政府が米国政府に対して、国際法のルールに従って、「原爆被害者に心からの謝罪」と「核兵器廃絶を達成するまで限りない努力を続ける」こと。
 そして、広島の平和公園の原爆死没者慰霊碑に刻まれた、「安らかに眠ってください。二度と過ちは繰り返しませんから」の碑文を「私たちは世界に二度と核兵器を使わせませんから、安らかに眠ってください」…と改めることを要求したいと思う。

 核兵器保有国は主張する「核兵器が戦争の抑止力になり、それによって平和が維持される」と。この際限のない核軍拡競争という悪循環は、人類の絶滅、地球の破壊をまねく怪物、魔物となり、人間の生存の権利を脅かす存在以外何者でもない。核兵器が存在する限り、核戦争の脅威もなくならないという、当り前のことを、人類共通の認識にしない限り解決の道はない。
 二つのノーベル賞(化学・平和)を受賞したライナス・ポーリング博士は「世界には、核兵器や軍事力という悪の力よりも、更に偉大な力があります。それは人の心であり、精神力です。私は、人の精神の力を信じています」。
 インドの聖者、マハトマ・ガンジーは、「原子爆弾がもたらした最大の悲劇から正しく引き出される教訓は、対抗をもってしては滅ぼすことが出来ないと云うことである。憎悪は愛によってのみ克服される」…と。

 死ぬも生きるも地獄の核兵器を造り出したのも人間であるならば、人間の責任として核廃絶をしなければならない。戦争は人の心から生まれる。いま”核の破壊力”以上に”人間の心”が問われている。
 平和とは、戦争、暴力、悪との間断なき精神の闘いから得られるものである。
 無認識、無批判、無関心、無行動からは何事も生まれない。悪や不正に対し、一人になっても主張し続ける勇気を失わず、最後の時まで生きていきたい。


 「原爆で亡くなったあの人の手紙」

生き死には人世の常と教えしも  母亡き子等の悲嘆に泣きぬ

 平成十五年六月、五十八回目の原爆忌を前に被爆の影響と思われる突発性ガンで妻が死去した。納骨のため帰郷し、「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」を初めて訪れた。父母をはじめ被爆死した身内の遺影や被爆体験記の中に、亡き妻が書いた手記が収められていた。
 “結婚当時、私が原爆症で苦しみ、毎夜寝汗で夜具がびっしょりぬれていたこと”“二人とも被爆者のため、子供の出産について後遺症のことで悩んだこと”等が書き綴られていた。
 その当時の被爆者は、結婚や出産すら世間の偏見に晒され、被爆したことも隠して暮していたことなどが思い出され、つらいひと時であった。

 人類史上、最も悲惨とされる原爆投下の事実も、年々人々の記憶から薄れ風化しようとしているいまも、核兵器拡散競争という際限のない悪循環は続けられ、地球の破壊をまねく怪物となって、人間の生存を脅かしている。死ぬも生きるも地獄の核兵器を造り出したのも人間であるならば、人間の責任として核廃絶をせねばならぬ。
 “核の破壊力”以上に“人間の心が”問われている。
(2010年送付)