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広島の声

郷家勇さん 直接被爆・距離2km(皆実)
被爆時19歳 / 宮城県亘理町8297

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  S20、8、6広島市皆実町1丁目暁16710隊船舶通信隊一中隊兵舎二階で被爆。崩れた兵舎の下敷きになって気を失いました。幸い大怪我は免れ、打ち身と軽い無数の傷ぐらいで九死に一生を 得ました。其の后動ける者達と中隊内の戦友達の救出に掛る。棟の下になって絶命した者、 ガラス破片で頚動脈を切って血しぶきをあげる友、腹の露出したもの、脳髄の露出した者、 眼球の飛び出た戦友、今も夢を見ます。其の後、部隊内の使用に耐える兵舎住いなるが、 疲れたのか発熱・下痢にみまわれ伝染病ではと言われたが、今思うと急性の放射能症であった様 です。救護所にも転送されず、部隊で過ごし非常に心細い思いをしました。
 終戦を迎えても身体が衰弱し故郷宮城県に帰る気力もなく、十月末日やっと帰る事が出き家に帰ってからの生活も、しばしば、めまいや貧血で倒れる事もありました。
 其の後、S29年に晩婚ですが結婚するが、女子三人に恵まれましたが、右手首の不自由や耳鳴り、めまいに苦しむが現在まで生かされて県内の被爆者活動協力して居ります。

  あの日以来現在まで60年も生かされ、生き伸び過去を回想してみると、我ながら微力でしたが核兵器廃絶の運動に被爆者の同志と一緒にやって来た事を誇りに思うと共に、これからも動ける限り続けて行きたいと思います。
 其の後被爆者達の悲願で在った被爆者援護法も、戦後50年12月にやっと国は国家補償明記も内容不備な法律で可決した。60年立った現在まで国に国家補償を訴え運動を続けて参りましたが未だに国は認めてくれない。
 其の内、日本が第三回目の原爆被害を受けなければ眼がさめないのでしょうね。私達被爆 者には後幾ばくも時間が無い。50年前の過ちは繰り返さないでほしい。
(2005年)

  その後の生様等、回想して手記させて頂きます。小生も本年で早や84歳を迎え様として 在す。我れながら良く生かされたなと感じ居る次第です。
 思い起こせば65年前S20年3月、19歳宮城県内より通信関係の職場に居た若者15名、遠く広島市内在る暁船舶通信隊に入隊、8月6日原爆に遭う。幸い生き残る。終戦を 迎え戦後S33年迄に戦友達の住所も不明で過ごし戦後はじめて被爆者の会。発足後被爆者の発掘に捜し歩く。その後10名消息を知るがその後現在迄に会に入った情報で 10名の戦友達がガン其他病いで亡くなる。現在生存の戦友は小生他4名となり、それぞれガンを患う。
 生きる小生もH15年6月早期発見で前立腺ガン摘切。翌年大腸ガン を無事に過ごし現在毎月1回病院に検診、投薬をうけ被爆者の会の為に微力ですが活動して居ます。又県南の被爆者の発掘に捜し歩き17名と接触、手帳の交付の件話会(う)。
 支部会員も又其ぞれガン等に侵され亡くなり、現在存命する方5名高齢となり、生き永いて居ますが諺に一度二度在りば三度あると。三度だけは絶対に無い様に祈ります。
(2010年追記)