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広島の声

寺本和男さん 直接被爆・距離1km(錦)
被爆時14歳 / 鹿児島県出水市5764

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  1−1.今は名前、忘れましたが、中学校時代、一級下の男の友達が母と一緒に抱き合 って、後から燃えて来るのも気付かず座り込んで居られ、其の二人、助ける事が出来なか った事。唯、残念になりません。
 1−2.8月6日は、真夏でしたが、避難先の三條の甘藷畑、一夜、夜明けが大変寒く、 夏の着物、由に寒い苦しい事でした。
 1−3.自宅の焼け跡で父と対面。家族全員死んだと思っている矢先の事。私も当時1 5才で子供で、父と出会った時の喜び、今でも忘れられない。
 1−4.鹿児島の父の妹宅に着いた日より、頭毛が抜け始め、其の上、下痢が続き、毎日、 毎日が苦しくて、死が今日か明日との戦いで病院に行く事が出来ず、お金も無く、又、着 替える着物ももたない当時、夏だから今迄生きのびて来たと思います。

 2−2.私の家族親戚合わせて、10人死亡して、又、中学時代同級生等、数多くの人が 死亡され、小学校時代の同級生合わせれば大変な方々が死亡されて居ります。当時、広島 上空より何百tと圧力で家屋を圧力で下敷きになり、其の上、燃え上がり、皆地獄。生き たままの火葬場と思います。今後、私たちが生が有る迄、広島、長崎の亡くなられた方々 の供養を、祈り続けたいと思って居ります。

 3−3.戦争体験、知らない戦後生まれの若い世代の方に、戦争、又、原爆体験の話を言 伝えて行く事が今では困難と思われるので、新聞、テレビ等にて企てて戴きたい。
(2005年)

 原爆投下前、十日市町近所錦町居住して居り、学校は、南観音町に有り錦町より天満町通って通学 行って居りました。其の時8時15分(時計持って居りませんので時間は分かりません。後で分か った時間)ピカと黄色の光りを発して何秒してどんと音迄聞えましたが、其の後の事、思い出せんで した。気が付いた時は、己斐の山中に於いて黒い雨が降り気付きました。其の時の服装、白のシャツ で黒い油のまじった雨で洋服が黒くぬれた。其れから、気が付いた時は、広瀬北町三宅針工場前に 差掛った時、真黒に焼けた人体を見てびっくりして目が覚めた。其れから、天満の方に向って進み 途中防空壕の中で出口をふさがれて助けを求めて何人かの人が居られた。十日市通って爆心地迄 行き原爆ドーム(産業奨励館)川の手前、中島小学手前迄行きましたが先行く事が出来なかった。
 産業奨励館の屋根の半丸が少しポろほろと、元気のない焼け方見て横川方面に歩いて行きましたが、 道路も普通の道路で人間も死体も見ません。爆圧で家等上から押しつブされて人間は家の下敷きに なって焼死した。寺町裏に来た時市電が爆風の為に線路より歩道の方に押出されて居た。人影は見当た らなかった。原爆体験して一生体の調子が悪く病院通いが日課の様で本当に困った一生と思って 居ります。
(2010年追記)