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吉田ミキさん 直接被爆・距離1.4km(基町)
被爆時20歳 / 北海道江差町5566
被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。
広島第2陸軍病院内科第15号病棟に勤務の私は当直明けの朝の申し送りで軍医・婦長以
下拾数名の看護婦が一堂に集っていた。8月6日8時15分の時でした。超低空を旋回し
ていたのは敵機B29だったとは。何の警報も発令されておらず誰もが友軍機だろうと信じ
ていた矢先、去ったとみせかけて急降直下爆弾を落としたのです。
単なる焼夷弾と思いきや恐ろしい化学兵器であった事を後で知りました。稲光の何倍とい
う光線が光り、次は大爆音です。ドッカーンと耳をつんざく大音響と共に私の体は宙に舞
い上がり、こんどはエレベータより早くスーッと落ち、気がつくと地べたにちょこんと坐
って居りました。暗がりに目がなれてあたりをみると木端微塵になった建物の中に生き埋
めになり、やがて火災が発生すれば焼死は必定。やがてあちらこちらうめき声が聞こえ、「痛
い痛い」「助けてえ」と悲痛な叫びで、私は辛うじて救出され外へ出てみると、瓦礫の山で広
島市が一望に見渡せます。
救援隊も加わり、相生川堤防の患者の散策地域だった処に仮救護所のテントが張られ此処で
私は吐気と全身疲労に悩まされ乍ら救護に当り、死体は次ぎ次ぎと運ばれ手の施しよう
はありませんでした。大きな穴が掘られイゲタ(#)に組まれた丸太の上に、5、6人づ
つ死体が積み上げられ焼かれていきます。人手不足で運びきれない夏の炎天下の腐乱死体
に群がる金ばえ青ばえ、さながら目前に地獄絵図をみる思いでその惨状目を覆うばかりで
した。殺戮の戦争程愚かで残酷なものはありません。このような残虐行為は悪魔の所業で
す。今日本に偉大な平和主義者がおり、地球上から戦争を無くしようとの思いから平和、
教育、文化を推進して世界190カ国地域にその賛同者がふえていると聞きます。マスコ
ミは為政者の権力を慮ることなく真実を報道してこのような方と手を携えて反戦運動を未来っ子
共々託していかれることを望んで止みません
(2005年)
(平和フォーラムでの発表原稿)
「広島被爆の語り部として」
私の生まれは、桧山の沿岸にある熊石町です。北海道から広島へ行ったのは、二十歳のときでした
。当時、広島にいた軍人の叔父から、自分は部隊長として中支へ派遣されるので、出産を控えた義叔
母と伝染病に罹った二人の子供と一歳の幼児の世話をしてほしいとの切なる頼みで、看護婦の経験のあった私がいくはめになりました。
大日本帝国は一九四一年十二月ハワイの真珠湾攻撃をもって戦争に突入しました。衣類は統制され、
店頭からは姿を消し始め、点数によって購入しなければなりません。
砂糖、石鹸、タオル、無い無いづくしばかりで、贅沢品は殆んど生産中止、米は配給、塩も味噌
も醤油もみな自家製造しなければならなくなりました。戦争が激しくなるにつれ生活必需品は全部
制限され、「ほしがりません、勝つまでは」が合い言葉でした。働き盛りの有能な男性は召集令
状によって職場から、家庭から消えてゆきます。殊勝にも二度と帰らぬであろう死ぬ覚悟で……。
食糧事情も一層緊迫して、道端の雑草までもお粥の具となって、雑炊をすする始末でした。戦
局はより一層激しく、銃後に残された者と言ったら、老人、子供、病人で、婦人は防火訓練、竹
槍の練習でした。隣組の人達にも、どんどん徴用令が来て、軍用工場に狩り出されます。
やがて私にもくる事は必定と思い、陸軍看護婦募集の記事を新聞で見つけ、早速応募しました。
そして広島陸軍病院本院に勤務となりました。昼夜をわかたぬ空襲で、休む間もなく、敵の機銃
掃射を受けたこともしばしばでした。
やがて広島市民の運命を、否、日本の国運大空には巨大な煙の塊が濛々と立ち上がり、恰かも
にんにくを逆さにした様な恰好で、黙々と広がって行くを左右する決定的瞬間がやって参りま
した。
この日のことは、私の脳裏に今も鮮明に残っております。忘れもしない昭和二十年八月六日、
午前八時十五分、私は前夜から数人の先輩と共に、当直に当っていました。いつになくB29
の襲来が激しく、夜通し空襲が繰り返されました。
その都度、赤玉の重症患者を担架で防空壕に運び避難させるのです。白玉患者は、護送で、
付き添って避難させ、独歩患者は軽症なので独り歩きが自由で自分で行動します。
相当数収容出来る防空壕に患者を入れたり出したり。これを一晩中繰り返し、心身ともにく
たくたになって朝を迎えました。
朝の申し送りで室付軍医以下十数名、机の廻りに集っていた時でした。突然急行直下の爆音が
響きました。何らの発令もないので、てっきり友軍機とばかり思い、誰も不思議がりませんで
した。すると突然、ギラギラッと稲妻の何十倍と思われる光線が走りました。
軍医は、「焼夷弾だ、廊下へ出ろっ」と叫びました。全員出切れないうちに、ドッカーンと
大音響が起こり、私の体はふわっと宙に浮いたと思うと、すーっとエレベーターで下りるような
感じがして、後はガチャーン、ドターン、ガラガラと物の落ちる音がして、その後は不気味
に静まり返りました。
あたりは真っ暗です。一体何が起こったのか。それにしても私は生きている。自分の体を
あちこち、つねってみたり、なで廻してみたり。爆風で左腕にガラスの破片がささり、そこ
から出血してぬるりとしました。手さぐりで確めると、私は幸いにも、物と物が支え合った、
三角形の中にちょこんと座っているではありませんか。あれだけ頭上に物が落ちたのに、こぶ
一つなく、体はどこも打っていませんでした。
人声が聞え、誰かが歩いて足元の板切れでもけとばしたのか、そこから朝の光がサーッと
射し込んできて、私のいる位置が確認され生埋めの状態から救出されました。やっとの思い
で外へ出て、驚きました。広島市街は、ぺしゃんこになり、私のいた病院はガレキの山です。
地べたに立ったままで一望に見渡せます。あまりの光景に唯呆然と立ちつくしてしまい
ました。
悲痛なうめき声や、助けを求める泣き声が次第に大きくなり、大腿骨から足を切断されてい
る人、爆風で吹き飛ばされて即死している人など見るも無残な有様でした。青空がまたたく
間に煙で覆われて、方角さえも見当つかなくなります。負傷していない者は一人もなく、交通
網も遮断されて救援物資も届きません。
やがて一面火の海と化して、大粒の雨がひとしきり降りました。畑のなすとカボチャが程
よく蒸焼きとなって居合わせた人々と空腹をいやしました。
陽が暮れないうちにと、広島より二キロ離れた戸坂村へ移動するようにとの連絡を受け
婦長と二人で、めまいと吐気と疲労と闘いながら、重い足をひきずって、やっとの思いでた
どり着きました。そして親切な民家のお世話になり、体調もよくなったので、前の堤防に
戻ったところ、救援隊が入っていて、毛布をつなぎ合わせたテントが張られ、負傷者は収容
されていました。
光線をもろに浴びた人は、皮膚が黒ずみ、ぶくぶくとふくれ上がって、別人のようになり
声で判断しました。このような重傷者の中から、死亡者が続出し、近くに大きな穴が掘られ
て、どんどん死体が積まれて、一まとめに火葬されていきました。
どこの誰かもわからぬまま焼かれていったのです。
軍都軍港の街だった広島は、大本営、陸軍病院、その他種々の部隊、武器弾薬をつくる兵
器廠等が集結していたため、攻撃の的となったようです。広島城は根こそぎくつがえり半焼の
軍馬のお腹の馬草がブスブスいぶり続け、その傍に人々が折り重って死んでいます。
黒焦げの腐乱体に群がる銀蠅が、通る度に羽音を立てて飛び去ります。誰とも分らぬ肉塊が
あちこちに転がって、さながら地獄絵図の惨状で目を覆うばかりでした。
このように、一瞬にして大量殺戮が可能な化学兵器を持つ敵国とは知らず、竹槍で立ち向
う訓練に明け暮れていた日本でした。
そして八月十五日、敗戦により終戦となったので、北海道に帰り、翌年結婚いたしました。
二児を出産した後ひどい貧血に悩まされました。再生不良性貧血です。
健康になりたい一心で昭和三十一年に創価学会に入会いたしました。おかげさまで健康を取
り戻し、五年前に乳がんを患いましたが、それも克服し、83歳の現在まで元気に暮らして
おります。
尚、華道教室を開いて四十年になりますが今もって地域の方々に活け花を教えております。
省みますと昭和三十二年九月、創価学会二代会長戸田城聖先生は、世界大国の核保有が
どんどん進んでいったその時代に、原水爆禁止宣言をなされました。それは、「いかなる国
であろうと、原水爆をつくり、使ったものは魔物であり、人類の生存の権利を脅かす絶対悪
である」と叫ばれたのです。
そして創価学会が教育と文化の交流を通して、世界に平和を築くための活動を続けてきてい
ることを知り、私も戦争を体験したものとして、その悲惨さ、愚かさを、なんとしても語り
継いでいこうと、決意いたしました。
町内会の集まりや、座談会等で、又知人友人達にも戦争体験を話しております。
平和な社会を孫やひ孫たちに残すため、これからも命のある限り、生命の尊さを訴えて
まいります。 以上
(平成二十年六月、函館平和会館で)
(2010年送付)