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広島の声

男性 直接被爆・距離1km
被爆時13歳 / 広島県広島市安芸区3362

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  ヒロシマで生き残った者には死者に対するうしろめたさのようなものがあります。車に乗 っていても歩いていても、街角のそこかしこでふっとあの日の地獄絵がよみがえってくる からです。あの日、たった一日違いで私たちの身代わりとなって爆死した一年生三百二十 二人のことを憶うとき、死ぬはずだった命を永らえているのではといううしろめたさから のがれることはできません。旧制広島二中の原爆慰霊碑は平和公園の西よりの本川べりに あります。慰霊碑の立つ河岸一帯は「あの日」の24時間前、私たち二年生が建物疎開作業 に出動していた現場でもあります。「あの日」が「五日」でも「七日」でも間違いなく私た ち三百余人の名が石に刻まれるはずでした。偶然としか言いようのない勤労作業の割り振 りが、そのまま私たちの生と死を分けたのです。生き残ったものとして運命の気まぐれとい うにはあまりにも重い心の枷です。

 受難の地は爆心から約四百メートル、ほとんど即死に近い状態の中で瀕死の篤村先生は「泳 げる者は川を渡れ、泳げぬ者は君が代を歌って立派に死ね」と訓示したといいます。川を 渡ろうとして飛び込んだ生徒は丸木につかまって「君が代」や「海ゆかば」を歌いながら 命を引き取った生徒もいると聞いております。「あの日」私達二年生もまた広島駅裏の東練兵 場で被爆、全員が火傷をしたのですが被爆体験については沈黙を守ってきました。身代 わりの一年生の死が余りに悲惨で地獄のような体験を忘れたい思いが強かったかもしれま せん。
 そんな私たちも古稀も過ぎるという人生の節目を迎え、それぞれの自分史を回想するにつれ 戦中、戦後の歴史価値観の変化はともかく、戦時下の中学生として一つの時代をともに生 き、人類史上初めての原爆を体験した仲間として「あの日」を証言することは、ヒロシマの死 者に対する生き残ったものの務めという思いがするからです。原子爆弾が落ちたとき、広島 にどんな悲惨なことが起こったか、そして戦争のない平和な世界がどんな大切なものかを 多くの人に考えてほしいものです。
 おわりに原爆の犠牲になられた恩師、同窓生のみ霊とヒロシマの死者のご冥福をお祈り いたします。
(2005年)