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広島の声

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男性 直接被爆・距離1.5km(白島)
被爆時17歳 / 愛知県11305

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  広島市の昔の牛田の土手(神田橋から工兵橋への中間)ですわった状態で黒コゲになって いる兵隊さんの横に木の板で消しズミで「フモト軍曹」とはっきり書いてあったこと。
 両親は癌で死に、現在妻は胃癌手術をし、長男が胃癌で手術、長女は良性腫瘍で手術、親 子4人の体調を考えると不安です。但し2人の子供は結婚しておりません。
(2005年)

 昨年、愛知原水爆被災者の会(愛友会)へ郵送しましたとのと同じ物を此処に同封致しました。私の原爆投下から数日間の体験談です。
 愛友会 御中

 何時もお世話になって居ります。
 風化しつつある、原爆広島を思うと、心痛む思いがこみ上げて来る様な此の六十年余りでした。でも当時の状態を思い出すのが辛くて広島の平和の式典にも、燈籠流しにもやっと行けるようになりました。
 年々歳を重ね身体の老化を感じ中学の同級生も現在数名になり、今ここでとの思いで書いてみました。
 此の私の原爆投下から数日間の体験ですが、後々の人のために何か参考になればと思っています。何卒、宜しくお願いいたします。

   昭和20年8月6日
 私は広島市立第一商業の三年生の時、広島市立造船工業学校に併設され、広島市江波町三菱造船で働いていました。
 私の仕事は、人間魚雷(回天)の水中で水の入る処のタンクの水圧検査でした。その朝、空襲警報が解除になり、仕事の為タンクの圧搾空気の留まるのを工場(屋根のみで囲いの無い工場の柱にすがり)の外で待っていました。その時、一機のB29が落下傘を落とし、今まで見た事も無い速さで飛んで行きました。毎日の様に呉を空襲するために飛んで行くP38、グラマン、B24、B29を見ていた私には、その時の速さの違いが判ったのです。

 そして、落下傘が目の前の工場の向こう側へ落ち、見えなくなって直ぐ物凄い爆風が襲って来て、工場の屋根(スレート瓦)の瓦が上から下へと捲れたかと思う間もなく私も飛ばされ、何かに頭を打ち一瞬気を失ったのか、何が何だか分からなくなり、暫くしてやっと定められていた防空壕に逃げ込むことが出来ました。その時同級生が4〜5人一緒だったと思います。その後、どの位経ったのか時間ははっきりしませんが、先生がいらして、防空壕に居る全員に、サイダーと乾パンを配り「今、広島市内は火事になっている。今から自宅に帰ってもらうが、もし、自宅迄帰れぬ時は6時迄に此処に集合。宮島の寮へ連れて行く。」と云われました。私は瓶のサイダー飲み帰路に就きました。

 何時も使っていた江波線を目指したのですが火の為通れなくなっていて私は天満川の土手を舟入の方へと向かったのです。その途中、女の人が背中まで倒れた家の下敷きになっていて「学生さん助けて…」と云ったけれど、直ぐそこの倒れた家まで火が迫って燃え盛っていて助けることも出来なくて心を鬼にして逃げました。燃え盛る街を避け、川沿いに県庁まで辿り着き、燃料会館の横の元安橋を渡る頃、着ているシャツが濡れる位の黒い雨が降りました。

 お昼過ぎ頃だと思いますが産業奨励館(原爆ドーム)前まで来ると火は燃えた後の状態になっていたのでやっと短い休憩を取る事が出来ました。休んでいる時、ふと気付くと河原や川の中に沢山の人々が居て「助けて」「水を頂戴」との声や呻き声が聞こえてきます。中には熱さから逃れて来て川の中で息絶えた人、水面で肩から皮が剥けて爪の先で繋がった皮が水面を浮遊して手が倍の長さに見える状態で息絶えている人、様々な状態の死人だかまだ息が有るのか判らないような人々の様子にまるで生き地獄を見た気がしました。この時の情景が忘れられず私の心の傷になっていたのか、今迄当時の様子を思い出すのが辛く、話す気にもなれませんでした。

 どの位それを見ていたのか、気づくと相生橋の欄干の北側は川に落ち、南側は内側に倒れ橋の真ん中にある市電の線路が所々20センチ位盛り上がっていました。目を転じて元安橋を見ると、欄干が所々川へ向かって倒れていて歯抜けの櫛のようになっていました。自宅のある白島への帰路として紙屋町を抜けたかったのですが十日市も紙屋町も火の海になっていてとても通れる状態ではありません。帰り道を探して見渡していた時、広島城が無くなっていることに気付きました。火傷を負った人、怪我をしている人、何人もの人達とともに相生橋を渡り小網町へ抜け天満橋を渡った時に2度目の黒い雨に会いました。これも前と同じくらいでシャツを濡らす程度の雨でした。

 福島町へ辿り着いた時、目の前は火事になっていたのですが、その火の中から消防団の人が、「今なら己斐まで出れるから走れ」と怒鳴っていたので火の中を必死の思いで走って通り抜け己斐まで出ることが出来ました。何人もの人達と山陽本線の線路を歩き、打越を過ぎ横川駅まで着いた時、線路の真ん中で人が死に上にトタンが掛けてありました。その頃にはもう死体は見慣れた情景の一部になっていたのかその事実の認識しかなく、何の感情も無かったように思います。気づくと私の靴の底が溶けて足が出ていました。線路伝いに鉄橋を白島へ渡った時に隣に住んでいるBのおばさんに会い「ご両親は元気ですよ。」と教えてもらいました。土手を少し歩いた処で探しに来ていた父と会うことができ一緒に家に帰り着くことが出来ました。帰ったのは多分午後3時頃だったと思います。帰ってみると自宅は焼けて跡形もなく庭の一部の畑で父が作っていた南瓜がそのままで蒸し焼きになっていたので、私の持って帰った乾パンとともに親子3人の夕食になりました。その夜は家が無いので私は風通しのいい工兵隊の官舎の横の土手で寝ましたが一晩中「よし子、よし子」と呼ぶ女性の声が聞こえていて今もその声を忘れることができません。

 翌日の8月7日、家の焼跡へ父と共に仮小屋を建てている時、親友のA君が「財務局へ勤めている姉が帰らぬので探しに行きたいが一緒に行ってくれないか」と私を訪ねて来ましたが、ふと見ると彼の腹の横にガラスの破片が刺さったままだったので、先ず父がそれを抜き、焼け残ったドクダミ草の汁を塗って応急の処置としました。それから二人で出掛けて、京口門の財務局へ着いた時にたまたま8月6日出張で広島を離れていた課長さんという人にばったり財務局で逢えたのです。彼もハッキリとした情報を持っている訳ではなかったのでしょうが「Aさんの机は此の辺りだったので多分この骨がAさんだ。」と云われました。

 A君は課長さんの言葉を聞くと泣き崩れもう動けなくなってしまったので私は近くにあった焼けた鉄兜を拾って来て課長さんの云われた辺りにあった骨を拾えるだけ拾い、泣きじゃくるA君を伴って彼の家まで送り、お母さんに事情を伝え拾ってきた骨を手渡しました。自宅跡に帰ると父から牛田にいる伯父(父の兄)を訪ね、様子を見て来るように云われたので牛田を目指して出掛けました。途中、黒こげで座ったままの状態で死んでいる人がいてその死体の横の木の板に消し炭で(フモト軍曹)と書かれていた情景を今でも思い出します。牛田の家は土手の下にある事も幸いして余り壊れてはいませんでしたが長女が半身火傷を負い油を塗ってもらっていました。後に「原爆乙女」と呼ばれる人たちです。

 8月8日此の頃には広島市の周辺の田舎から、おにぎりが届けられるようになり、又配給も始まりだしました。緊急時には町内毎の現状を調べ市役所に知らせるとの定めが予め決まっていましたので町内会長をしていた父は町内の現状を調べその連絡をするのに代役として私が市役所へ行くことになりました。市役所へ向かう途中京口門でB29が来たので慌てて近くの防空壕へ逃げ込んだのですが中には沢山の死体があり、熱さの為に腐敗も早かったようで物凄い臭いで居たたまれず逃げ込んだ防空壕から逃げ出し、上空を気にしつつ紙屋町へ向かいました。途中シャッターが閉まっていた芸備銀行、隣の住友銀行もシャッターが閉まっていましたがその入り口の石段で座った状態で亡くなっている人を見ました。銀行は開店前に良く石段で座って開店を待っている人が居たのでその方も原爆投下時にそこで開店を待ったまま亡くなったのでしょう。住友銀行の隣の日本銀行にはシャッターが無く中のものが見えたのですが死体と2〜3人の人が動いているのが見えました。

 その前の市電の線路では電車が脱線していました。少し行くと白神神社の大きな石灯籠の火袋と上の傘の間に5センチ位の石が挟まっていました。市役所に着き現状報告を済ませ地下トイレに行くと配給用らしい沢山のバターが倉庫の中で溶け、その上で二人の死体がありました。帰る途中も紙屋町の西寄りで脱線した市電の中で5〜6人の死体を見ました。日本銀行は被爆後8日目に営業を開始しています。

 この日の夜から家族3人が全員、鼻血と下痢そして髪の毛が抜ける症状が出てきだしました。母が倒壊を免れた高い土塀の下に生えていたドクダミ草を鉄兜に入れ炙りお茶にして飲ませてくれ、そのお茶を飲みだして約2週間位した頃にやっと下痢が止まりました。
(2010年送付)