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広島の声

女性 直接被爆・距離1.4km(上柳)
被爆時4歳 12273

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  私のもの心ついて最初の記憶があの日のおそろしい光景なのです。おさなかった私は当 時はさほど感じていなかったのかもしれませんが、成長するにしたがってあの時、はっき りときざまれた記憶のあまりの悲惨さむごたらしさと、そこにいた自分、生き残った自分に もせまってくる死への恐怖とで耐えがたい日々を過ごす事になりました。被爆者とゆう運 命をせおって生き続けてきました。そしてこれからも…。

 私が本当にあの日の記憶から解放され安らげる日は、私の命が終わる日だと思います。けれどもあの日、むざんに命を絶たれた多くの方々のために、決して忘れてしまってはならないと思っています。その思い…語らなければ…とゆう思い、心の声を聞きながらも、決して語らず、かくし続けて生きた事を許してもらえるでしょうか。どんなに苦しい時も神にたよる事が出来ませんでした。神々はいらっしゃるのでしょうか。もしそうならあの日、なぜ救って下さらなかったと思うと、信じる事ができませんでした。

 23才の時結婚しました。夫は私を愛して受け入れてくれたのです。私達は約束 しました。私達の間に原爆の影は決して立ち入らせないと。何が起こっても運命として受 け入れると。その日から41年間。約束を守って生きてきました。でも3人の子供達に恵ま れ、自分よりも愛しい存在が出来た時、被爆の恐怖がどれほど私を苦しめたか言葉ではい いつくせません…。もし原爆が原因で子供達が不治の病におかされたら…と一刻 も心が安まりませんでした。

 それでも子供達はすこやかに成長し、私自身も大病はしまし たが(被爆との因果関係は判らないといわれました)命ながらえて、今年も8月をむかえ ようとしています。爆心地から1.4キロの地点で私と母は生きていました。亡くなられた 多くの方々の人生をも背負って残りの人生をけん命に生きたいと思います。この紙面では あの日の事を書くゆとりはありません。おさない私があの日みて、今も心に残る事を短く 短歌にしてみました。
 「死んだよぉ〜死んだよぉ〜と叫ぶ若き母うでの赤子に黒き雨ふる」
(2005年)

 あの日の様子、そして私達が奇跡的に助けられる事につながる前後の出来事等々、お伝えしたい事はたくさんあります。手記に書いたつたない短歌。今も耳に残るさけび声はどんな状況だったのか…おさなかった私の心にきざまれたむごく悲しい記憶です。

 昨年母を亡くしました。私事ですが、昭和16年、当時警察の要職にあった父は上海に赴任しておりましたが開戦のせまる16年6月17日、「しょうかいせき」のテロにより暗殺され殉職致しました。(その時の葬儀の様子は当時の朝日ニュース年鑑にものっております。)私は生後まだ8ヶ月でした。父の郷里であるヒロシマにひきあげ、そして被爆…。終戦。

 すべてをうしなって戦後、女手ひとつで私達兄姉3人を育ててくれた母の人生は苦労の連続でしたが、晩年は子供や孫に愛されて100才の天寿をまっとう致しました。被爆しながらも100才まで生きられたのは、若くして亡くなった父や、あの日亡くなった多くの人々のたましいに守られたからではないかと思います。私も今年「古希」をむかえます。今日まで生きられた事を深く深く感謝して、残された人生を生きたいと思います。

 私に文才があれば、当時の事やあの日の事、書き残したい事は本当にたくさんあるように思うのですが…。二度と戦争などおこりませんように、核兵器廃絶の実現を祈り続けております。
(2010年追記)