english

ここから本文エリア

  • 閲覧上のご注意

広島の声

この声の英語ページへ

女性 直接被爆・距離1.5km(観音本町)
被爆時17歳 7634

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  原爆で親せきや友人を亡くしたが、やはり心残りは末の弟である。
 私が12才、弟が1才の時に母が病死し、以後幼い私が五人の家事をし母代りとなった。1945年当時は弟は寺子屋に通い、勉強もよくしていた。
 8月6日、弟はいつものように寺子屋に行き、私は、気分が悪く家で寝ていた。投下後、 弟は寺子屋に行ったきり行方不明となった。
 ろくに母の愛情も知らずけなげに生きていた弟が、原爆により幼くして亡くなり、母のも とに旅立ったことは今考えても心苦しい。
(2005年)

 あの恐ろしい原爆を私も広島で受けた。当時、私の体験した恐ろしさを少し書きたいと思います。
 その頃、私の家では父が病気になり郷里へ療養に行って留守だった。家には弟が3人に妹が1人いた。当時、上の弟が中学生で下は皆小学生だった。17歳だった私は、親代わりに家庭を守り弟たちの世話をしながら苦しい時代と戦っていた。

 昭和20年8月6日午前8時15分、運命の日。私は、前日から具合が悪くて寝ていた。当時のことだから警告のサイレンは、昼夜を問わず鳴り響き避難する人々の騒ぎや敵の飛行機の騒音などで落ち着けない時代だった。その後、警戒警報は解除された。私は、外の騒ぎを聞きながらも眠っていたようである。そんな時、突然目の前に「ピカッ」と光が映り「ドン」ととても大きな音がしたので起きて座ると途端に家が倒れてきた。一瞬の出来事で何が起こったのか、ただ自分は死ぬのだと思いながらも気が付いてみると私は生きていたのである。

 無我夢中で外に這い出た。あんなにも暑く照りつけていた太陽は見えず、真っ暗で家々はみな倒れ、ほこりとも煙とも見分けもつかず一面が真っ暗だった。この時も何が起こったのかさっぱり分からなかった。たった今、騒いでいた人達の姿も見えなかった。私はボーっとして立っていた。しばらくして、気をつけて見ると暗闇の中に見える人は皆、無言で顔や頭などに生血を流し、倒れた家から這い出てくる人、中には顔や皮膚が真っ黒になっている人。私は、この時はじめて大変な事が起きたと思い、弟たちが心配になり大声で呼んでいた。2番目の弟は腕を骨折して妹と倒れた家から出てきた。上の弟も外から無事に帰って私たち4人は助かった。が、末の弟は帰らなかった。帰らぬ弟を心配する間もなかった。

 市内はあちらこちらに火が燃え移っていたのだ。逃げ場もなくとても危険だった。近くの川に避難することになり夢中で逃げた。土手まで来た時、2階の家が倒され、5〜6歳の女の子が生き埋めになり大きな柱に押えられて顔と片方の腕だけがでていて「痛い、痛い、おかあちゃん、おかあちゃん」と泣きながら頼んでいたが、振り向く人もいなかった。上の弟が飛び込んで行って腕を引っ張り助けようとすると、「痛い、痛い」と泣くばかりだった。火はそこまで燃え移り、私は弟が危険なのではと狂ったように大声で弟を呼び叫んでいた。その子は、母親の眼の前で焼け死んだ。その母親は、ただ手を合わせて逃げて行った。

 私たちもやっと、川まで行ける事ができた。逃げる途中、倒れて亡くなる人も大勢いた。ある若い女性は外傷もないのに砂場で横になり意識はなく、そばには男の赤ちゃんがおなかが空いていたのか、どろどろになりながら泣いていたのである。その女性の夫らしき人が来て、赤ちゃんを抱いて朦朧としている妻に「いいところに参ってくれよ。」と言葉を残してどこかに去って行った。

 あちらこちらで「水をください、兵隊さん水をください。」どこからきたのか、きちんとした服装をきた兵隊がたくさんいたが、水もなかったが、誰一人振り向きもしなかった。中には、自分で川水を飲む人もおり、水を求めながら、ほとんどが亡くなっていった。
 身に着けていた服はボロボロに破れ、時間がたつと頭の毛は抜けて黒くなっていた。やけどの傷は皮が剥がれてぶらぶらとボロ布のように垂れて、なんと残酷でこの世の出来事とは思えぬ何とも言えない地獄絵図であった。

 まもなく、川が満潮になるので、弟がイカダ作り下の弟妹を乗せ、冬布団を積み、橋の下に行った。市内は、火の海だった。暑くて暑くてたまらない。布団を川の水で濡らしては被り、濡らしては被りをしながら、川のお陰で難を逃れた。
 一日燃えていた市内も夕方になるとある程度治まり、私たち一家は市内外れの「楽々園」というところに避難するように指示があり、焼けつくようなコンクリートを素足で一生懸命走った。死体はあちらこちらに横たわり、足の踏み場もなかった。

 暗くなり「楽々園」に着き、少し落ち着くと行方が分からない末の弟が心配でたまらなかった。当時、末の弟は小学校2年生だった。1歳の時に母が亡くなり、私が育ててきた。あんな時代に生まれ、食べる物はなく不憫でたまらない。朝、あんなに元気だったのに警報が解除されて寺子屋に行ったのです。夜中でも枕元にカバンを置き警告の知らせがあると、「姉ちゃん、避難しよう。B29がくるよ。」と言いながらカバンを背負い私を急かせていた。あんなにも用心深く元気だった弟が犠牲になったと思うとかわいそうでいつまでも半狂乱に泣いていた。

 当時、広島には親戚がたくさん住んでいたが、生き残ったのは何人もなかった。親戚の中で弟を入れて、行方不明やなくなったのは24人にもなった。警戒警報が解除された矢先だったので犠牲が増えたのである。
 翌日、弟と市内に出た。広島市内は、見渡す限りの焼け野原になっていた。私達が住んでいた所がどこなのかも見分けがつかなかった。何とも言えない悪臭。死体は男女の区別もつかないほど膨れて散らばっており、焼け跡には生き埋めになり逃げられず焼け死んだ人達があちらこちらで骨になり惨たらしい状態だった。

 私達は弟を探すのに必死だった。焼け跡に小屋を建て住みながら毎日死体を見て回ったが、弟は見つからなかった。所々に行方不明や連絡先を知らせる立て札が立てられていた。外傷や重症の火傷を負った人は倒れた校舎の一部で応急治療を受けていたが、生きている人に傷が腐敗し、蛆虫がわいていたのである。叔父や叔母がそうであった。

 あの日、具合が悪く家で寝ていた私は助かったが、あの日から私達兄弟の運命は変わってしまった。まもなく戦争も終わり、私達は住む所も失い裸一貫で父を頼って父の郷里に帰ったが、父もまた亡くなっていた。郷里では頼れる所もなく、私達兄弟に想像以上の苦しみが待っていた。乞食同様の生活が続き、私達はバラバラになってしまった。

 私は結婚し、昭和24年に先に日本に渡っていた主人を頼って再び日本の地を踏む事ができた。4年ぶりに見る広島はすっかり変わっていたが、私達が生まれ育った家の焼け跡は残っていた。行方不明の弟の事ばかり目に浮かび道で泣いていた。
 原爆の尾は、いつまでも私達兄弟につきまとっている。生残った妹弟の体の具合も良くなかった。恨めしいあの原爆が落ちなければ、私達兄弟がバラバラにならずにすんだのに悔やむばかりである。あの恐ろしい体験はもう二度としたくはない。

 あれから60年余りにもなり、私も80歳という年になったが、あの原爆で犠牲になったであろう末の弟を偲び、毎年8月6日には広島を訪れ冥福を祈っている。
(2010年送付)