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広島の声

女性 直接被爆・距離1.7km(千田)
被爆時18歳 8007

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  私は20年8月6日千田町の日赤病院で被爆しました。それから顔中、ガラスの破片が入 った身体、手や足にも包帯を巻いた姿で毎日看護にあたりました。苦しい事、悲しいこと も忘れて只々看護婦として毎日働きました。時々、新報の記者の方が私に何故逃げなかっ たのかと聞かれた時、今の若い人の心ない言葉にきずつきました。昭和の初めに生れて 戦時教育を受けた私達の心の中をしらないと云う事に悲しくなりました。

 2.日赤病院、山程の沢山患者さんが来られました。その人達の姿、皮膚か着物かともわか らぬ姿とペンギンの様な歩き方、そして何とも云えない臭いでした。それと黒こげになっ た姿です。山の様な死体。今思っても気の毒に思います。友達の黒こげの死体。名前のわ からない人達です。

 3.次世代はこんなことは知らされずに楽しそうに遊び、人を殺す事も何とも思わないと云う事。無ざんに死んでいった人達は悪いこともしないで国の方針と云うのかそれだけで死んで行った事にいかりを感じます。そして今の子供達に今迄よりももっときつい武器が出来 て殺される事を悲しく思います。今の総理はもっと良く考えて頂きたいと思います。政府 は被爆者が自然に死ぬのを待っていると思います。
(2005年)

 どんな理由があろうとも、人が人を殺し合う、しかも”国”という大義の代償としての戦争は決してゆるされるものではありません。化学兵器の恐怖は子へ子孫へと連綿と続きます。私たち被爆者は、2世3世…ふくめて、爆発で即死した多くの方々に申し訳ない気持を抱きながら、身体の痛み、差別偏見の悲しみと戦い続けるという永遠の戦争を続けなければならなくなりました。戦後など永遠に来ないのです。今も世界のどこかで新たな苦しみ悲しみが生まれていることをゆるしてはなりません。私はもう年をとり、病院暮しですが、死んで土になっても平和を祈り続けます。
(2010年追記)