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広島の声

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女性 直接被爆・距離2km(舟入川口)
被爆時16歳 / 東京都葛飾区13390

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  原爆で広島市中が燃えさかり、焼かれた市民の断末魔のうめき声と「助けて下さい」「水、 水、水を下さい」の声が、今でも耳についていて忘れられません。
 広島市女の一、二年生は建物疎開の後片付けに動員されていて544名全滅、先生はじめ 全員死亡。市民、女、子供などアメリカの投下した原子爆弾により、何の抵抗も出来ないま ま死んでいった方々にみ霊安かれと祈っています。

 東京から、8月6日には慰霊祭に参加しています。
 原子爆弾を使う、核戦争は絶対あってはならない。
 二度と被爆者をつくらない為に…。
(2005年)

 ※原爆被害体験談集 昭59.11.1発行
 体と心の中の原爆とのたたかい 1998.12.20発行
 原爆広島投下体験談 平成10.6.6原稿

 広島で16才の時広島市立高女、学徒動員中に家の中で被爆、怪我で右手手首上10cmのところ静脈裂傷出血多量の為仮死状態のところを「お姉ちゃん頑張りましょうね」の声で呼び戻され助けられました。遺伝が心配で娘の結婚話の時、被爆をかくしていました。今は一人暮しですが(子供2人孫5人曽孫1人)、健康に育っているので遺伝は一応安心ですが、自分が「がん」はいつ患るか心配です。80才になりますが、被爆者運動に協力しています。
(2010年追記)

 「体と心の中の原爆とたたかい」より
       多くのみ魂に代わって
 私は十六歳のとき、爆心地より二キロメートルの、広島市舟入川口町の家のなかで被爆しました。
 ピカッ。
 鋭い一瞬の閃光は、照明弾の何万燭光かと思うぐらいの明るい光で、目玉を射抜かれたかと思うほどの衝撃でした。家具やガラスが割れて、ふっ飛ぶ音。ドカン、ガシャン。バサッ。身体も庭へ放り出され、腰を打ったのか、痛い。右手の静脈が切れ血が吹き出して、足もけがをして歩こうと思っても痛いのです。外は、電柱が途中で折れ、電線もぶら下がってゆらゆら揺れて、瓦も飛んできます。うす暗く無気味でした。

 キノコ雲がもくもく上っていたころだと思います。これはただ事ではないと思い、痛さをこらえ、わが身一つで逃げ出しました。人、人、人、みな逃げまどっています。

 細い道に入ったのは覚えていますが、無我夢中です。ふり返ると、もう火の手が上っていました。
 災害時には舟入国民学校北側に逃げると決めていたのですが、行く途中、出血のため気を失い、倒れてしまいました。見知らぬおばさんが、

「これでしっかり結ぶのです」
と繃帯をしてくれましたが、しばらく行くと、また気絶。
 どのぐらいたったでしょうか。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん、がんばりましょうね」
遠くでかすかに声。白い割烹前かけで赤ちゃんをおんぶした姿が目に入り、ざわめきのなかを、動こうとするのですが、動けません。

 ボーッと空白の世界に引きずり込まれ、夢か幻か、「がんばりましょうね」の声。「お母さん」「オカアサン」子どもの激しく泣く声と、生臭い血の匂いに意識がもどり、<死にたくない><戦争なんていやだ><どうしても死にたくない><しっかりしろ>と、自分に言い聞かせて歩き出し、もうろうとして、電車通りの街路樹まで行って、動けなくなりました。江波山へ避難して行く何百の人も見ました。感情もなく黙って歩いているのです。真夏の太陽が照りつけ暑い日です。

 火傷の人も動けなくなって、
「水ゥ、水ゥ、水をください」
と呼びかけていますが、だれも見向きもしません。熱線を浴びた火傷はひどく、何か持っているのかと思ったら、やけどで赤身が出て、皮膚がぶら下がっているのです。私のまわりでは、精神に異常を来たしている人もいます。
「あなたは町内会長さんではないですか?永寿(姓)です。助けてください。」
「あなたは竹内さんではないですか、お願いします」
と、喉も裂けんばかりに、助けを求めているのはおばあさん。戸外で被爆したのか、着物は焼けてぼろぼろ、裸で腰巻一つ、足の皮は赤黒く、ズルズルにむけて、布切れで巻いていました。

 またも、「水、水!!助けてください」と倒れている人が、避難の人びとに呼びかけています。私も何とかしたいのですが、身体が動きません。また、気を失って、意識がなくなりました。

 元、近所だったリヨちゃんが、私を見つけて、傍にきてくれました。市電の停留所で、背中から被爆。火傷です。洋服の白い部分は免れていますが、手や足は、ずるずるに皮がはがれていました。
 江波山への避難の列はえんえんとつづきます。ブーン、ブーンと偵察機です。耳をつんざくばかりの低空で、爆音がひびきます。<恐ろしい戦争はいやだ>と地面に顔をすりつけて、遠ざかるのを待ちました。

 そのときです。小学校二年の千代ちゃんが、私を見つけて、私の母が「舟入国民学校にいるから来なさい」と言っていると、知らせに来てくれました。でも動けません。「動けないから、迎えに来てください」と頼んでいるのはリヨちゃんです。私はまだ意識もうろうです。
 どのぐらいたったでしょうか。名前を呼ばれて、見上げると母です。
「お母さん!」
「玄関の所の血を見たので、もう生きていないかと思った」
と、抱きかかえてくれ、母の温もりが伝わって涙、ただ、涙です。
「千代ちゃんありがとう」
 火傷しているリヨちゃんと、母に支えられて、少しずつ歩き始めました。
「家は?」
「一番に焼けたよ」

 校庭には続々人が集まり、火の粉を払いながら、非常用の米を持ち出したという米屋のおじさんに、白いおにぎりをいただきました。おいしかったこと、その味は今でも忘れられません。またもやサイレンです、偵察機です。その度に人に支えられて、恐怖の避難をくり返しました。防空壕のなかでは、
「新型爆弾で、広島市全体、火炎が発生し、手がつけられないほど燃えています。今晩はこの辺も危ない」
と話し合われていました。

  広島駅へ徴用で仕事に出ていた父が、火のなかをくぐって帰って来ました。
 救護所になっていた近くの唯信寺へ、戸板の担架にのせられ、傷の手当に連れて行ってもらいました。寺の本堂の屋根はふっ飛び、火傷の人のうめき声で、地獄絵図さながらの状況でした。
「痛い。水ゥ、水ゥ、水をください」
と助けを求める声。顔は、目も耳も口もわからない状態の人で、立ったり倒れたり、断末魔のうめきと猛暑、火傷の人、死線をさまよう人びとは数知れない。うめき声は夜中までつづき、力つきて死んでいったのです。今でも、あの声は耳について離れません。火勢は時間を追って広がり、夜を徹して燃えつづけ、空を真紅に染めていました。白々と夜があけるころには、校庭で一夜をともにした人びとが、息絶え、死体が累々とつづき、隣にいたかわいい女の子も、けがも火傷もしていないのに死んでいました。

 翌八月七日午前六時には、五日市から炊き出しのトラックが来て、おにぎり一つと、乾パン一袋が配られ、
「もう食糧の補給はありませんから避難してください」
と言われ、山口県の柳井へ行くことになりました。
 行く途中で見たことは、舟入国民学校のすぐ近くまで焼き尽くされ、残り火にほてる道端には、軍隊が死体焼却をした頭蓋骨や骨がごろごろ散らばっていたことでした。
 兵隊さんの引く大八車に乗せてもらい、ズシン、ズシンと硬い車輪に刺戟され、意識をとり戻しながら、柳井へ向かう途中、父親らしい黒こげの死体を運ぶ小学生や、あばれたままで真黒に焼けた馬の屍体を天秤棒で運ぶ若者の、財を失った悲しみの姿も見ました。

 広島市女(母校)の先生や、一、二年生、五百八十七名は、建物疎開の整理に行ったため全滅でした。希望に満ちて入学したばかりの童顔の女学生です。難を逃れた校長先生は、
「わが子を、一度に二人とも失った父兄から、『子どもを返してください』と言われたときほど、困ったことはありません」
と涙しておられました。

 翌日、柳井で、外科病院へ行きました。そのとき見た一人のおばあさんは、凄い形相で、頭、顔、目も口もわからないほど、二倍以上に腫れあがり、黄色い汁がぽたりぽたりと流れ、首も回らない、声も出ない、すわっているままのしかばねのようでした。

 五十三年たった現在でも、まだ病気と不安で苦しんでいる人がたくさんいます。「原爆死の多くのみ魂よ。涅槃の境地へ鎮まり給え」と祈りながら、核兵器廃絶と核戦争絶対反対、世界永遠の平和を旗じるしに、運動をつづけていきます。
(2010年送付)