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広島の声

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平塚シゲさん 直接被爆・距離1km(西九軒)
被爆時29歳 / 宮城県涌谷町30000

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。     夫と二児を原爆に奪われて
 広島で被爆を受けました平塚シゲです。私は戦争の哀しさと怒りをここで生き証人として申し上げます。
 私の家族は主人、私、子供二人の四人の生活でした。昭和二十年八月六日の朝八時を過ぎたころ、朝の食事も終わり、主人は新聞を見ており、私は食事のあと片付けをしていました。子供は二人で、そばで遊んでいたのです。その時、ものすごい、いなずまのような光が目の前を走り去ったと同時に、おおきな爆音とともに住居もろとも、私達家族はたおれた家の下敷となりました。私と夫は自力で出ようと必死でした。その時、隣の奥さんが、

「助けて下さい。」
と言う声を私達は聞きました。私はおおきな声で、
「私たちが先に出たら助けてあげますよ。」
と言いながら、ようやくはい出すことが出来ました。出てみたものの、広島市内はぜんぶメチャメチャでした。建物などはどこにも残っていませんでした。そして、あちらこちらからと、火を吹いておりました。あまりの恐ろしさに、私は早くにげなくてはと思い、隣の奥さんのことなぞ忘れてしまい、子供達はどこだろう、どこにいるのかと見まわしていました。

 ★子供達はどこに
 子供の名を叫んでいた時、私のところから二、三メートルはなれたところで、
「お母さん助けて、お母さん助けて。」
と叫ぶ声に、私は走りよって見ました。それは自分の娘の和子、六才でした。あまり動こうとしない夫に、
「あなた早く来て、早く、早く。」
と叫びました。その時主人は肩から血を流し、打身がひどかったのか、力を出すことが出来ませんでした。歩くのがやっとでした。娘は、
「お母さん痛いよ。足が痛いよ。足が痛いよ、足が抜けないよ。早く抜いてちょうだい。」
と、叫びつづけているのです。私はひっぱり出そうとして、けんめいにひっぱりましたが子供はびくともうごきません。かべに、土や木材に、胸から下はぎっしり埋まっています。どうしても出すことは出来ませんでした。それでも私は必死になって出そう、出そうとしましたが、どうすることも出来ません。火は、どんどんと私達をせめて来ます。もうここにいる時間がないのです。火は足元近くまで来て、ごうごうと私達をあおり立てるのです。熱くて、苦しくて、もう我慢が出来ません。そのときの死の恐ろしさにおそわれた私は、死ぬのはいやだったのです。生きながら焼かれていくことは、どうしても出来なかったのです。

 私は子供に手を合わせました。手を合わせて、
「和ちゃん、ご免なさいね。悪いお母さんだけど許して下さい。和ちゃんも死にたくないでしょうけれど、お母さんも勇気がなくて、死ぬことはできないのです。火がこわいのです。和ちゃん許してね。許してね。」
と泣きながら、ふり向き、ふり向き、後ろ髪引かれる思いで、火のない方に、火の出ていない場所をえらんで、歩くのがやっとの主人の手を取って、逃げつづけて行きました。逃げる途中で、死体とは知らず、何回も踏みつけ転びました。死体の上に転がった私は、そのむごたらしい死体がおそろしくもなく、ただ哀しい気持ちでいっぱいでした。そうして逃げつづけているうちに、横川の川原に逃げのびていたのです。

 ★戦争はいやだ
 そこで、私はのどがぴりぴり、口はかわき、水を飲むために、河原を流れている水を飲もうとして見ると、人の死体が流れて来るのです。手で死体を押しやって、水を手ですくってのんでいるうち、次から次と死体は流れてくるのです。焼けただれた人、ふくれ上がった人の死体でした。水を飲みおわった私はぼうぜんとそれを見ていました。
 するとなんだか胸元が苦しくなり、吐き気がしてきました。黄色い、少し泡の立ったものを吐きました。もう何んの気力もありません。泣きたくもないです。そこで、はっと耳に入ったのは人の泣き叫ぶ声です。見ると、狂ったように、家族をさがすため、沢山の死体を一人一人ひっくりかえし、家族であるかないかをたしかめているのです。

 あたりの死体はもう見るに忍びない火傷で焼けただれたもの、腹わたの出ている人がごろごろです。この人達もここまでは必死で来たのでしょう。そして力つきて、たおれて、死んで行ったのでしょう。私はその時、「ああ戦争がこんなむごたらしい姿に人間をしてしまったのだ。」と思った時、生きながら、火の中で死んでいった、お母さんと呼びながら死んだ子供のことを思い出し、「戦争はいやだ。にくい戦争のないところに行きたい。」となげき哀しみました。
 あたりが暗くなってきました。つよい雨が降ってきました。音を立てて、ザアザアと降ります。その雨は黒い雨でした。雨はあまり長く降りませんでした。私達はその夜はこの川原で一夜を明かしました。

 ★和ちゃん許して
 眠れない長い夜でした。その時大きな声を出して泣き叫びました。また言いました。 「和ちゃん許して。お母さんを許してちょうだい。悪いお母さんだったけど、お母さんもどんなに哀しい思いであなたをおいて逃げたことでしょう。苦しかったでしょうね。」
と、わびつづけました。その時の主人は無口でした。涙だけを流しておりました。どうして、こんなに一瞬のうちに広島市内がなくなってしまったのか。何の音もなく、あのおそろしいいなずまのような光だけで、人間が、家がなくなってしまったのだろう。その時の私にはこれがあのおそろしい原爆であったと言うことは知るはずがありません。

 蚊にさされ、眠れないながらの、長い夜もすぎ朝を迎えました。九時すぎごろになって、救護班の人達が来てくれました。生き残っている人達をトラックにのせて、市内から数キロ離れた田舎の町の学校の体育館に運びこまれたのです。
 そこで見たものも生き地獄でした。見るに忍びないのです。ひどい傷を受けた人、焼けただれた人、もうすでに死んでいる人。
「苦しい、助けて下さい、水を下さい。」
と言って、苦しい声でうめいている人達で、いっぱいでした。その中には、母親は死んでいるのに、幼い子供は、母の胸にはい上がりお乳を飲むのです。乳は出るはずはありません。幼い子供は母の胸でぐったりしていました。「これが戦争なのか、こんな戦争をいつまでやるのだろうか」と気の遠くなる思いで、泣くこともできませんでした。

 そのうち、一人死に、二人死にと何人かの人がなくなっていきます。暑い夏のことですので、焼けただれて死んだ人達にはうじ虫が湧いているのです。暑さと、言いようのない悪臭の中で、いく日過ごしたでしょうか。

 ★夫の血が止まらない
 ある時、
「歩ける人は身内をたよって行くとか、くにのある人は故郷に帰るかして下さい。」
と言われました。
「汽車も出ておりますから。」
と言われ、私達は主人の故郷である宮城県登米郡の佐沼に帰ることになりました。
 主人の実家に帰った私達は少しは落ちつきをとりもどし、あまりにも髪が汚れていたので洗うため、くしを入れました。すると、くしを入れた部分が抜けると言おうか、かたまって抜け落ちるのです。びっくりした私は髪の毛をひっぱって見ると、づぼり、づぼりと抜け取れるのです。哀しさのあまり頭をかかえて泣きくずれてしまいました。たちまちのうちに、私は坊主頭になりました。

 それからまもなく、私達は仙台の大学病院に入院することになりました。入院はしても一週間ぐらいは何の手当もなく薬もありません。傷の手当をするだけでした。病院の方も、このような私達に、どういうことをしたらよいのかわからなかったようです。「まず血液を採って検査をしてみなければ手当が出来ないので血を採らせて下さい。」
と言われ、主人とベッドを並べておりましたので、主人の方から先に、血管から血液を採りました。取り終わり、針を抜くと血は止まりません。押さえていても、どうしても、血は出つづけるのです。どうしようもなく、先生が大ぜい来て、出たり入ったりのうちに、主人の全身に紫の斑点ができました。そして茶色い水を沢山吐きました。それを吐くと、ぐったりとして、一時間ぐらいで亡くなってしまいました。生き残ることの出来た主人なのに、また、夫まで私から奪ってしまったのです。

 ★笑うことを忘れてしまった私
 私のお腹の中には赤ん坊が入っておりました。六ヶ月でした。食料のない苦しい時代でした。そまつな食事をしながら、「これで赤ん坊が育っていくのかな」と思いながら月日が経ち、二十年十二月に男の子を出産しました。普通より小さな子供でした。出産後も、私の体は快方に向かいませんでした。この子供とベッドの中で人に知れないよう、いくら泣いたかわかりません。これから先のこと、自分の体のことなぞ考えると、哀しく、淋みしく、泣くのでした。その時、私にはもうすでに両親はなく、姉妹もありませんでした。あの哀しい思い出をのこした年も過ぎ去り、二十一年の春四月を迎えたころ、私は退院をするというよりも、夫の両親に、「もうあとは家で療養するように。」と言われまして、私は病院を出てまいりました。

 八月になりました。主人の兄、長男夫婦と子供三人が満州から引き上げてきました。そこに、まもなく、四男夫婦も子供四人をつれて満州から帰って来ました。私達は皆一緒に住み、生活をともにする事になりました。ここも、私には住みよいところではありませんでした。食料のない時代でしたので、赤ん坊をつれた私は長男夫婦やその家族との中で、どんなにつらい思いで暮らしたことでしょう。広島での生活を思い出しながら、台所で食事の支度をしながら、涙を流す日々でした。笑うことを忘れてしまった私でした。

 ★絶対に許せない戦争
 いまの私は体の体調もよくありません。白血球減少症という病気に苦しめられています。私をこんな病気にだれがさせたのでしょう。戦争です。国の責任です。現在は食べるものも沢山あります。平和です。この平和をやぶることは許しません。絶対に許せません。
 戦争で死んだ人も、被爆で死んだ人も自分で死んだのではありません。戦争の哀しい犠牲者です。死んだ夫や子供達への本当の供養となるのは、今から戦争を起こさないことなのです。そのため、私は生きて、戦争を絶対にさせないように協力をすることだと思います。被爆者の苦しみが忘れられたら、また戦争が起きます。そんな気がします。だから、一人でも、二人でも、できれば世界のだれにでも分かっていただけて、もう本当にどこの国にも戦争がないと言う世界を造りたいと願っているのでございます。
(平塚さんの本証言は、一九八二年五月二十六日、「原爆と戦争を裁く仙台法廷」において被爆者の証言として話されたものです。)
(被爆50年記念文集<第4集> 「いのり」 宮城県原爆被害者の会 より)