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広島の声

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西冨房江さん 直接被爆・距離2.8km(宇品)
被爆時20歳 / 神奈川県横浜市港北区124

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  60年前の8月6日月曜日8時15分、私は窓の外に太陽が落ちて来たと一瞬思いました。

 地平線に沈む夕日の美しさよりもっときれいな真赤な円い巨大なもの、それが世界で初めて 見ることの出来た原子爆弾だったのです。しかしきれいだと思った反面何か恐ろしい物だ という意志が働き防空壕へ避難しようと部屋を出るべくその物体に背を向けた瞬間生れて 初めて受けた強烈な熱さを感じました。てっきり火傷をしたと思った程でした。翌日暁第 2940部隊管理部をあとに同室の女性たちと自分たちの家を探しに出ました。毎日通い 馴れた市内は一望千里焼野原と化していました。人間の身体の60〜70%は水分といわ れる。それが高熱を浴びて膨張しどの顔も異様に腫れ上がっていました。黒焦の死体もあ り自分が背に浴びた熱さと思い比べどんなにか熱かったことだろうと想像を絶する思いに 胸が痛みました。父は爆心地に近い処で満員電車のステップに足をかけた瞬間運転手が倒 れるのを見たとの事ですが、火傷としては右耳の後をほんの少し火傷をしただけでしたが、 放射能を全身に浴び高熱のため食欲なく苦しみ乍ら敗戦の日の朝7時頃亡くなりました。

 しかし30分くらいの場所を命からがら7時間以上かけてわが家に辿り着き娘たちの疎開先 で家族に看とられて畳の上で亡くなったことはごく稀な特筆すべき出来事として父はしあ わせだったと信じています。
(2005年)

  広島市宇品町暁第2940部隊司令部管理部
 筆生として勤務(20才) 旧姓 間宮
 父 間宮直一 (67才)

 父は黒い雨も浴びて着ていた服は黒いところはボロボロに剥がれたと聞きました。
 高い熱線で異様に腫れ上がった顔面はどれも同じ顔形で身内でも識別が不可能だった事を知り 不思議に思いましたが後々考えて当然と確信しました。
 昨日まで通勤した街は黒一色の無惨な姿に変わり果てていましたが、相生橋を渡ってふと目に 入ったのは防火用水に赤ちゃんを抱いた母親が着物を着ていました。
 生きていると思い側によってみましたが二人とも火傷の跡もなくきれいでした。何故防火用水に 入っているのか理由が判りませんでしたが、建物の中から爆風で吹き飛ばされたとしか考えられ ませんでした。その時は思い及びませんでしたが何十年も経て後、あれは広島の(幼いイエス様を 抱いた)マリア像ではなかったかと考える様になりました。私は仏教徒ですが……
 広島と長崎に落された原爆は現在地球上に存在する核兵器とは比較にならない微力なものだっ た事を考えてほしいと切望しております。

  議員の殆どが戦後生まれの現在、そのうちの何名が 広島・長崎の資料館へ足を運んだのでしょうか。
 私も1947年5月結婚以来(それ以前疎開して郡部にいた)広島で生活した事はありません。 昨年8月6日神奈川県の遺族代表として初めて慰霊式に参列しました。まもなく85才を迎え ますが何事もなく生き永らえております。横浜市の被災者の会に運営委員として席を置き 小・中・高その他で被爆証言を行っております。
 健康体を授けてくれた亡き両親に感謝しながらせめて平均寿命まではと希っております。
(2010年追記)