english

ここから本文エリア

  • 閲覧上のご注意

広島の声

この声の英語ページへ

石田喬子さん 直接被爆・距離2.4km(大芝)
被爆時11歳 / 東京都多摩市724

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  大芝国民学校校庭で、B29の音がすると飛行機雲をたどり見ていた時「ピカッ」と土砂 が舞い上がり孤立状態となりました。防空壕に入り「火を消しなさい」と云われ、着てい たブラウスを手でもみ消しました。前身頃の色の部分が焼けくすぶっていたのです。穴あ きブラウスとなりました。それと同じ様に顔、両腕、足の甲(裸足でした)を焼いたので す。

 その日の内に8K先のお寺(安村)へ逃れ級友と共に4人助かったはずです。ある朝「枕 元のヤカンの水が空になって娘が死んでる」とお母様の悲痛な声で目覚めました。又或日 もう1人「いい按配にしてちょうだい」と泣き、繰り返しながら死にました。大阪で空襲 に会い転校して来たばかりの子でした。次はあの子(私の事)だと皆んなが云っていたと 30年も経って兄から聞かされました。私は1ケ月寝たきりでした。その後歩ける様にな り鏡を見てびっくり赤鬼です。その後、黒くなり、今流行のガングロの元祖です。10代 をその顔で過しとても暗い青春でした。11才で終った2人の級友の事を思うと涙が込み 上げてきます。同じ場所で被爆し2、3日で死ぬ人、60年も生きている私、説明出来 ません。母は21年7月死去。十分な手当も受けられないままでした。父が健在で、理解あ る人と結婚し健康でもあり良い人生でした。

 人間として話し合い理解し合えば戦争は回避出来ると思います。
 戦争の無い世界にしたいです。
(2005年)

 『11歳の生と死』
 60年前原子爆弾を投下され二度とこの様な事があってはならないと訴えて参りました。
 この様な事とはどんな事か記してみます。昭和20年8月6日広島の朝、爆心地から2.4キロ 北に位置する大芝国民学校での事です。空襲警報が解除になり登校をしました。教室に鞄を置き裸 足で校庭のシンボルツリーの柳の木陰で朝礼を待っていました。誰かが「B29だ」と東の方向を 指差すのです。朝日が眩しく手をかざして空を見ました。飛行機雲の太い方から細い方へと辿った 時“ピカッ”と眼の奥の奥の頭の中まで光り次に“ドドーン”と地鳴りがし、校庭の土が黄色の砂 煙となり舞い上がり、そばにいた友達も何も見えなくなり一人ぼっちになりました。とっさに防空 壕へ向かっていました。校庭には私達が作ったサツマ芋畑がありその畝に身をかがめ這って行きま した。芋の葉がひんやり感じたのを覚えています。

 壕に入ると「火が付いているヨ消しなさい」と言われ自分の胸元を見ました。暗い中で火が見え ました。白地にプリント模様のブラウスの色の部分が焼け、燻っていたのです。手で押して消しま した。洗い晒しの色も褪せた生地です。その色の部分が焼けて穴だらけになりました。その他の着衣は 紺の厚地のもんぺです。前身頃が茶色に変色し、後日ボロボロになりました。

 しばらくして校庭の見通しが利くようになり外へ出ました、東側の茅葺きの民家が火事になって いました。私の家は南の方でしたが、行っては駄目と言われ、裏門から出て北へ向かう行列の中へ 入りました。

 途中で大粒の雨が降ってきました。本当に黒い雨です。泥水を降らした様でした。その汚い雨でも 火照(ほて)った体には安らぎになりました。「ガソリンを撒き火を付け全滅にするのかもしれない」と、 大人の人達は心配していました。

 私は外傷(けが)はなく火傷(やけど)のみでした。着衣が焼けたと同じ熱線を浴び顔・首・両手・ 裸足の足が火傷をしていたので途中の救護所で足に包帯を巻いてもらいましたが歩いている内に解 け、それを踏まれて一歩も歩けないのです。止まって巻き直すことも出来ない程の行列でした。 担任の先生が追い付いて背負って下さいました、その先生の首の後ろには火傷があり痛そうでした。 被災者を乗せた馬車に私を乗せて下さりその後先生にお会いしていません。「女の子なのにかわい そうに」との声を聞きながら8キロ北の安村へ運ばれました。その晩からお寺で寝たきりになり皆 さんのお世話になりました。次の日、私の名前を呼ぶ母の声が聞えました。母はあちこちと探し 回ったそうです。自宅に居た母は家が地震のように揺れ、箪笥が倒れ開いた引き出しから着替えを 持って逃げたそうです。

 十分な手当ても受けられないまま母は翌年7月に他界しました。38歳でした。

 「天皇陛下の命により治療に来ました」と兵隊さんの治療を受けました、赤チンを塗るのです。

 毎日ウトウト寝て時間の経過も何もはっきりしません。

 或る朝異様な気配で眼が覚めました「枕元のヤカンに水をいっぱい入れといたのがからになって 、娘が死んでいる」と誰彼構わず訴えている人がいたのです。私の頭の向こうに寝ていた友人の事 でした。又関西で空襲に会い転校して来たばかりの級友は「良い按配にして頂戴」と赤ちゃんが泣 くように繰り返し言っていました。或る日、それが聞えないので尋ねたら、「亡くなった」と。

 この様に毎日誰かが死んでいました。「次はあの子(私)だと言ってた」と30年も経った頃兄から 聞きました。同じ場所で被爆し2・3日で死ぬ人60年も生きている私、説明出来ません。

 私は1ヶ月以上寝たきりだったので亡くなった友人も見ていないし自分の腕の火傷を観察するだ けでした。

 九月になり傷が乾き始めたので立ってみようと柱に掴まってびっくりです、頭は後ろにのけ反り 足の傷はズキズキし膝はガクガク腰はフニャフニャで立てません。毎日練習をし9月末には歩ける ように回復しました。

 その後柱に掛けてあった鏡を見た私の驚きは今でも忘れません、そこに赤鬼がいたのです。その 真っ赤な顔がだんだん黒くなり顔黒の青春でした。私は他人にじろじろ見られたり鏡を見た時だけ 醜い姿に気付くのですが、両親や姉兄はその姿を四六時中見せられ心配をかけたと思います。

 11月になり高い熱が出て歯が3本抜け、その時も皆駄目だと思ったようです。

 11歳で次の朝の目覚めがなかった友、体の不具合を訴えながら黄泉(よみ)の国へ旅立った友、この二 人に代わってその無念さを伝える事が、生きている私の役目だと思い、書いて静かに筆を置きます。

 人間として話し合い理解し合えば戦争は回避出来ると思います。戦争の無い世界にしたいです。
(2010年追加)