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広島の声

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薬師寺容子さん 直接被爆・距離3km(牛田)
被爆時18歳 / 広島県東広島市8569

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。 1 B29をこの目で見ましたけれど1機でしたし、たいした事がないのかと家の中で縫物を始め ました。そしたら窓(ガラス)にピンクと水色の様なフラッシュをたいた様な光がさっと 入り、1瞬びっくりして家の防空壕の方へ走りましたが飛ばされて防空壕へ入りました。
 1瞬とても静かだったのですが、すぐにすごくさわがしくなり、小学校の前の家でしたので小学 生が助けてと入って来ました。服は皆火がついてぽろぽろもえていました。けれど子供達 はここへも爆弾が落ちたのだといって出て行きました。私の家が天井がぼろぼろに落ち て柱時計も家の外に投げだされていました。柱はガラス片でバリバリでした。私もすぐ家 の外へ逃げたのですが、目の前でまっさおになって倒れて死んでしまう人がいて、又ま っ黒にやけた人が逃げて来て目の前で死んで行かれました。

  夜は外で父と弟と寝ましたが夜どおし苦しむさけび声や、又私の隣に寝ていた子は水をほし がり、水をくれといっていましたが朝明るくなってみると、まっくろにやけた小学生でしたが 死んでいました。横に兄らしき人が1人いましたがその人もまっくろに焼けて顔もわから ない位でしたが、弟にだきついていました。あまりにも死者が多く私が必死でどうかしてあ げられなかったのがくやまれます。昼頃父と弟と田舎へ逃げるのに途中はやけた人が1杯 でよけながら道を歩きました。川にも人がつっこんで死んでいましたし道にも死にそうな 人が無表情でならんで坐っていました。
 いろいろありますが多すぎて書けません。今は三叉神経痛であまり話も出来ませんし体力もありません。
(2005年)

  田舎の家のすぐ裏道を毎日の様にトラック(農協だったと思います)が広島へ日帰りしていましたので、私も若く家が牛田にありましたので、1日おき位いに広島へ行っておりました。
 家の中には8畳と10畳位の部屋に私の家の布団をひいて沢山の人が寝ていました。皆目はあけておられましたが、無表情で傷口からとても太ったうじ虫がころころころがっているのを覚えています
 あんなに太った大きな、うじ虫は見た事がありません。1人の婦人がホーキとウチワではきあつめては庭へ捨てておられました。今私も手伝えばよかったと思っています。

  そして次の日に行った時は寝ていた人が減っていました。行くたびに人数が少なくなっていました。苦しむと言うより皆放心した様にしておられました。傷口からウジが出て来ても皆手ではらう事もなく ボーとしておられました。ウジはコロコロ傷口からこぼれ落ちて手もつけられないほどでした。
 田舎へ逃げて帰る途中の小屋では死んだ人が積みかさねられて中には真中位の人が手をかすかに動かしておられるのがわかりました。

 私は本当に地獄をみました。
 私も九月頃から貧血がひどく家の中で寝たきりで、あの頃は医者も治療法がわからずただ点滴をうってもらっていました。母は青柿がいゝと言ってどこからかきいて来て、 すりおろして食べさせてくれていました。私は今でも歯ぐきがイタく固い物は食べれません。三叉神経痛になった頃は10年位い、口があけられませんでした。今は顔へ注射をしていただいてどうにか 口があいてくらしています。でもいつ何になるか心配です。子供2人はガンにかゝりまして1人は今治療中です。

 私は大阪産まれの大阪そだちで小学校も女学校も大阪の学校です。広島へ疎開してすぐ被爆しました。父が大阪の大学を卒業して大阪でサラリーマンをしていましたので。
(2010年追記)