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広島の声

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工藤敬子さん 直接被爆・距離3km(牛田)
被爆時7歳 / 福岡県福岡市南区9053

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  書くとなると多すぎて、ここにすべては書けないでしょう。命あるうちに、すべてを残し ておきたいと思っています。被爆したのは、牛田小学校の前の自宅を出たところでし た。
 3kmとありますが、これは母が私の結婚の差別のためでして、実は2kmちょっと くらいでしょう。被爆後、家が住まわれない状態でしたので、やけのはらを父と母と弟とお 手伝いさんとネコをかかかえ、宇品まで歩きました。前が小学校だったにもかかわらず、 親の見栄で、中心から500mくらいの陸軍済美小学校に通ってました。

 前日5日に宿題をもらいに、学校に行きましたが、新しい先生2人が入ってこられたので、当日その先生 を、疎開先につれて行かねばならないので、翌日6日にもう一度2年以上の生徒は出てく るように、その時、草でつくったダンゴをあげるからとのことでした。私はいつも宇品に ある病院に行く医者の父と一緒に、家を出てましたが、家を出る直前、近所の人が父にみて ほしいとのことで、結局家の前で被爆しました。当然友人は皆亡くなりました。その後色々 病気をしながら、生きのこりの苦しみをいやというほど味い、死も何度も考えました。

 今は、甲状腺がんかも(はっきりしない)といわれ、切るように云われましたが、ことわり、亡 くなった友人の御供養と声の出るうちに出来ることでたのしんでます。(ほんの一部です)
(2005年)

 宇品に移ってからは、よほど白血球に異状があったのでしょう。蚊にさされても化膿して、毎日家族の分、洗った、たくさんの包帯をまきあげるのが私の仕事でした。ネコは小さな傷を治す事も出来ずすぐ 死にました。家の前が女子専門で、その校庭では毎日穴を掘り次々に亡くなっていく人々を火葬していました。そのにおいは、その後10数年たっても、私をおそいました。現在でも光と音は異状に反応します。

 こわいです。
 精神的ショックからのものと考えられる。病気とちょっとした、かぜでも回復がおそく、何度も、母が枕元で私に云った事は「7才で死んでいたはずだから、回復出来ないでも、あきらめてくれ」でした。
 「うん」とうなずく私をみて、母の心はさぞつらかったでしょう。結婚しても5度の流産、無理と大学教授から云われましたがあきらめず、結局3人の子供を授りました。産んだものの、この子等に原爆二世として、 何か、おきたらどうわびよう――皆様方と同じように頭に常にありました。2年半前に脳梗塞で失語症になった主人を介護で(インスリをうち、薬を飲ませ、カロリーを考え、成年後見人になる)毎日をやっと生活してます。

 苦しい人生でしたがこの苦しみは命をいただいたんですから当然受けとめるべきと原点にもどり感謝に変ています。ただ老いて72才、人並に体力が無いため、亡くなった方々のために、又平和のために 何も出来ない事、ただただ真に申しわけなく、心が痛みます。出来る事は毎日の読経での御供養だけです。ほんとうにごめんなさい。生き残った意味があったのでしょうか。
 私受けた傷等、左目の2mm下大きなガラスがつきささったのと右うでをやけどしたくらいで、もっと大変な人がたくさんいらっしゃいます。ただ黒い雨にも、つかってたし、 二次放射能も大量に受けています。のこされた時間、何かの可能性は考えてます。
(2010年追記)