english

ここから本文エリア

  • 閲覧上のご注意

広島の声

溝口武ニさん 直接被爆・距離4km(南観音)
被爆時15歳 / 広島県府中市13156

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  昭和20年8月6日、広島市観音町(その当時)広島三菱造船高等工業学校2年生の時、寮 生活をしながら学校も近く食事を済ませ午前8時過ぎ歩きながら校庭に入り遊んでいた処、 見渡す限り晴れ渡った青空に突然大きな爆風と同時に真っ白いきのこ雲から大きなドーナ ツの様なまん丸い輪が頭上にでき、真っ黒い大粒の雨の様なものが瞬間的に降りかかって来 ました。それと同時刻ころ、学校の校舎と講堂は板壁の為、爆風でスローモーションを見る ように倒れていくのを見て、これはただ事の爆弾ではないように思えました。それから丸2 日間昼夜を問わず燃え続け、宇品港の近くでガス爆発が何回となく起きていました。

 実は、私の友達2名は運悪く爆弾が落ちた朝早く市内へ出向き帰って来ない為自分達で手分けをし、寮生と共に市内は勿論の事、宇品港よりランチ(子船)に乗り金輪島まで探しに行ったがとうとう見つかりませんでした。市内には沢山火傷の人達があふれ、あまり熱いの でなかには川に飛び込み死んで行く人、その死体を兵隊さん達がロープに結び引き上げ収 容されていた。本当に生きた地獄を目の当たりにして見て泣いて泣けて仕方なかった。

 数日立って我が府中へ帰って見ると、父も府中地区から芦品部隊として広島へ8月1 日から建築物を取り壊しに行き、紙屋町近くから自分では大変な怪我をしながらも、私の 居る観音町近くまで来て人に尋ねたら、私の学校の近くは爆風だけであまり被害はないそ うだと聞き少し安心されてランチで島に収容されたそうです。その後、兄が広島駅より父 を普通列車に乗せリンゴを食べさせながら福山の病院まで連れて帰り、家族皆最後の別れ をされたそうだ。
 母の為には勿論、家族の為にも、又、父の為には死んだ父の倍は元気で生きて社会に奉 仕できればと思っています。
(2005年)