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広島の声

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杉本芳子さん 直接被爆・距離3km(観音本町)
被爆時15歳 / 熊本県熊本市9942

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  “山は哭き 河は嘆かふ ひろしまに またの緑は なしと思いね”
 “呪うべき かの日の証(あかし) 歌をよむ 吾娘は死にいたり 被爆者われは”

  これは生前の父が出版した歌文集“花のいのち”の巻頭の二首です。此の歌には当時の 亡父の心境が溢れている様な気がします。
 その頃父は三菱製作所の技術者として勤務していました。又、その家族は会社近くの社宅に住んでいました。あの朝、妹久美子は建物疎開の片付作業で爆心地に出掛けたのでした。被爆直後、私が自宅へ帰った時、父は妹を探しに出掛けていたのです。

 夕方疲れ切って帰った父は妹の消息は全くつかめず、あちこちでひどいやけどをした生徒達が“先生、水を下さい”との声を聞き乍ら後髪を引かれる思いで家路についたそうです。毎朝背負い紐を手にして出かけていた父が線香とロウソクを持参して行く様になりました。しかし、それも用立てる事も出来ず遺品らしき品も何一つ見つかりませんでした。

  戦争中とは云え一年余しか住んでいない広島で最愛の娘を失った、父、母の無念さは判り知れません。戦後此の地(熊本)に居を移したのも、きっと広島に住むことが辛かったからだと思います。
 年老いてからの父は口ぐせの様に“反核”を唱え、又自からの被爆体験を語る為各所学校等へ出かけたりテープを送ったりして“ノーモアヒロシマ”を説いていました。最夏の8月6日には何回となく私達も同行して訪れていました。

 しかし今は父もなく、母も老身ゆえ最近はその朝皆でテレビで中継を見て思い出話が つきません。私の中の妹は今も13才の女の子です。広島の地に眠っている彼女はその前日 迄“ぜんざい”を欲しがっていました。今年も又それを作ってお供えする心算です。何時 か又、逢いに行きます。
(2005年)

  被爆体験を私達家族は大なり小なりの被害を受けて此の地に住むことになり、その間父を始めとして弟達を失い、昨年は母も彼方へ去ってしまいました。昨年は子供達と広島へ行き、念願だった妹久美子の遺影に感動しました。私が思っていた妹は何時逢っても13才の少女でした。広島の地で眠っている彼女に一回でも多く逢い"久美ちゃん"と呼びかけたいと念じつつ帰途につきました。
(2010年追記)