english

ここから本文エリア

  • 閲覧上のご注意

広島の声

この声の英語ページへ

桑本勝子さん 直接被爆・距離3.5km(長束)
被爆時6歳 / 広島県広島市東区11421

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  二〇〇三年に作詞した物を記します

八月六日
あの日死んで逝った人々へ
あの世で逢ったら尋ねたい事があります。
熱線で焼かれた皮膚が、どんなに痛んだかと、
腫れ上がった唇をどんなに冷たい水で、
潤したかったかと、
動員された幼い中学生達は、どんなに親のもとへ
たどり着きたかったことかと、
水を求めて折り重なって海のもくずと消えた人々は
どんなに自分たちの事を、
家族に知らせたかったかと、
爆風で飛び出した眼球を両手でささえていた人は、
それを大切にすれば
再び光が戻ると信じて居たのかと
妻と四人の子供を残して跡形もなく消えた隣人は、
家族の事を案じる暇もなく、
その肉体を失ったのかと、
そしてたとえ生き長らえても、体中の癌と闘いながら
命を縮めた人々はどんな大きな
不安に苛なまれ続けたかと
(2005年)

体験記
(被爆時六歳)
 一九三九年、私はこの世に生を受けました。物心がついた時には、われわれ庶民にはほんのわずかな食料しか手に入らなくなっていて、いつもひもじい思いをしていました。その頃には戦火もかなり激しくなり、当時三十歳を過ぎていた父にも赤紙(召集令状)が来ました。

  父が召集された後、母と私たち幼い姉妹の三人で、当時薬研堀甲の四というところで暮らしていましたが、空襲警報が頻繁になり八歳の姉は縁故疎開で祇園町長束の父方の叔母の家に預けられることになりました。私は母と二人で暮していましたが、六歳になり国民学校に入学しました。その頃(一九四五年四月)には学校に通うものの殆んど授業などできない状態でした。それでも一ヶ月くらい通学したでしょうか、でも余りの空襲の激しさに旧市内の子どもが暮らすことができなくなり、私も叔母の家に預けられることになりました。本来母親のもとを離れたくなかったのですが、「毎日盃に一杯の大豆のおやつがあるよ」という言葉に誘われておばの家へと行きました。

  長束小学校に転入して始まった他家での生活は、六歳の私にとって想いのほか辛いものでした。学校に行くと、そんな予定もないのに「もうすぐ町の家に帰るのよ」と口癖のようにいっていて、担任の先生がそのことを確かめに来られたりしていました。そして週末になると姉と二人で四キロメートル余りの道を歩いて母のいる家に泊まりに帰りました。

 ちょうど原爆投下の前日の日曜のことでした。夕方疎開先に戻る時間なのに「もう死んでもいいからおかあさんと一緒にいる」と云いながら大声で泣いていた私たち姉妹を、近所の人たちがそれぞれの家の中から出てきて、皆でなだめて疎開先へ送り出してくださいました。その時いただいた桃を食べながら何とか歩き出しました。その次の日のことです。原爆が投下され、母の家も隣組も総て壊滅、炎上したのは。

  疎開先の小学校で被爆した私たちは、かねてより教えられていたとおり、耳と目をふさいでその場で姿勢を低くしました。同時に学校中のガラス窓が崩れ落ちました。たまたま窓の側にいたクラスメイトは顔にたくさんのガラスが突き刺さり顔中から血が噴き出していました。校庭に出てみると、担任の先生は負傷した生徒を抱きかかえて、広い運動場を、円を描くように走っておられるのです。私たち一年生も意味なく泣きながら先生の後ろをついて走っていました。

 それからどれくらいの時間が過ぎたのでしょうか。私の姉が「何してるの!」と言いながら側にやってきました。殆んど同時に疎開先の叔母も私たち姉妹を捜しに学校までやってきていて、「ああ、怪我がなくて良かった。何かあったらお父さん、お母さんに申し訳ない」といいながら一緒に帰りました。

  その後いくら待っても広島の家に一人で暮している母と、一向に連絡がつきません。たまりかねた従兄弟(当時二十五歳くらい)が「伯母さんを探してくる」といってリュックを背負って出かけていきましたが、「三篠のあたりから火のてが上がって先に進めない」とすぐに帰ってきました。次の日も、その次の日も母は帰ってきませんでした。そんな時、叔母が「お母さんを探しに行こう」と言い出し、私たち姉妹と叔母の三人で出かけました。三篠辺りの土手には、このあたりまで逃げてきて命を落した人々の遺体が累々と並んでいました。近くに住む人の好意で遺体には全て筵(むしろ)がかけてありました。その筵を一枚一枚めくって母を捜しましたが、遺体の破損が激しくとても見分けのつく状態ではありません。それに加え真夏の太陽の下で、ものすごい臭気でとても耐えられませんでした(その時の様子を絵に描いてNHKに送りました)。命を落した方々は、ほとんどの方が身体の大部分を熱線で焼かれ、赤銅色に腫れ上がり、顔の見分けなどつくはずもありませんでした。