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広島の声

女性 直接被爆・距離2.5km(南千田)
被爆時5歳 / 東京都11504

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  8月6日、5才6ヶ月の私は自宅の2階で被爆しピカッと光を背から受け、衣服がやけ階下にいた母を呼び続けたが、50才に近い母は助けにくることが出来ず、姉が私を抱き火をけしてくれました。2階建の自宅はガラスの破片がとび散り、姉、兄そして母もガラスがささったり、私など半身はやけどで、ただれていました。元安川は血と死体の川と化し、たれ下った皮膚の人々が「水、水を下さい」と叫び、中国塗料のドラム缶がはじけて対岸近くまでとんでいました。家族のいる母なのに一升ビンに水をためては、叫んでいる人々に飲ませてあげていました。

 父の実家に家族全員で引揚げ、一番ひどくやけどをしていた私の治療に両親は種々薬 をつくり、両親の愛があったからこそ生きられたのだといつも感謝しています。私の一生 は被爆者として生きて、いや生かされるのですが、とても残念です。時には悲しくなりま す。重複するかもしれませんが、市長様宛に出した手紙のコピーを同封致します。
一生涯の補償をして欲しいと思います。

 八月六日五十九回目の原爆投下の日を迎えました。
 昨年の秋、月刊茶の間で市長さまの「原爆の子」の映画がなかったら、広島市長になられていないとの記事を拝読し、八ヶ月もたった今ようやくペンを執っています。拝読後すぐ書いたのですが差出す勇気のないまま今日に至りました。

 一九四〇年広島市中区南限りの南千田西町二−二四現在の所在地で誕生し五才で被爆しました。
 幸いにして瀬戸内海の斉(イツキ)島に父が長男の為田舎があり、燐の燃える広島市内を戸板に乗せられた私、半身はやけど 被服についた肌 母が鋏で洋服を切ると身がついて骨がみえた程。
 両親の厚い厚い介護、後から聞いた話しだと他にも三人の子供、食事も大変で、これだけ尽くしたのだから死亡しても仕方ないと迄思ったそうです。

 引きつった腕、ひざ裏、顔から首、背中のやけど、歩行できなくなった私に父はわら草履をつくり、母は一歩二歩と杖をつかせての歩行訓練。
 引きつった部分を少しでもよくするために習いはじめた洋舞バレー、自分に自信をつけさせるために日本舞踊で舞台で一人で舞うこと、珠算、書道、茶道、華道と習いごとをさせてくれました。
 小学校時代、やけど、やけどといじめられたことも度々でした。
 母は「あなたをまともに誕生させました。日本国の犠牲です。くじけないで自信をもって生きなさい」私が成人してからは「変われるものなら、変わってあげたい」と申していました。

 今思えばなんとありがたい両親と感謝の気持ちで一杯でございます。
 在広中は高校の商業科の指導者として、又、総合塾の経営者をし、東京出身の方に嫁いで市長様の出身地東京に住んでいます。
 原爆手帳が使える病院の少ないこと、又原爆手帳を近くの病院で使いたくないこと、被爆者と知られたくない為に東京は住みづらいと思います。
 でも国際都市東京は大好きです。

 お願いがございます。
 外見から顔に、首に、やけどの跡がはっきりわかる、私のように半袖を着用することもできない、腕が完全にあがらない等々は、厚生大臣認可をしてほしいと思います。
 無傷で生をうけ被爆のために支障をきたした一回限りのこの人生をご理解いただき今後その方向づけをしていただければと思います。
 ご多忙とは存じますがお考えをと願っております。
 被爆者と知られたくない私の生活でございます。
 よろしくお願い致します。            かしこ

追伸
 年々死亡して減少する被爆者の数なのに何故手当て引き下げられるのかも理解できません。
 よろしくお願い致します。
 又被爆二世である子供医療費についても私共同様にしていただければと存じます。
(2005年)

  一生涯の補償とは、厚生大臣の認可(特別手当)。
 現在病気、原爆の影響とありますが、身体にやけどの跡があり、生涯消えることはないのです。現在なお治療を必要とするようであれば、生きていないのです。とても矛盾を感じています。早急に検討いただきたいと思っています。
(2010年追記)