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広島の声

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川本司郎さん 直接被爆・距離2.3km(西蟹屋)
被爆時8歳 / 静岡県静岡市清水区10653

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  広島市内はあっちこちで、強制疎開のため家の取り壊しをしている。自分の家も川(猿猴川) のそばに(西蟹屋町)あった。今は中通りに住んでいる家主が引越したので、借りている。 二階建てでタタミ100畳の大きな家だ。物干しに上ると、よく呉市の方で飛行機の空中 戦が見えた。

 8月6日、朝から暑い。8時頃、警戒警報のサイレンが鳴り防空壕に避難、すぐ解除にな った。父(53才)は大洲駅傍にある砥石工場から市役所の取り壊しに、今日も行った。 母(47才)、近所にあるお菓子工場(カンパン等作っている。)軍需工場に働きに行った。 長男(16才)、滋賀県大津陸軍少年飛行学校に行っている。次男(14才)中学2年、 呉の軍需工場に学徒動員でいっていた。今日は休み。朝から宇品線鉄橋の下で泳いでいる。 三男(10才)五年生。荒神町国民学校付近にいた。五男(4才)、三男と一緒に学校付近 にいた。四男(8才)、自分は次男の後を追って宇品線の鉄橋の上を行ったり来たりしていた。

 川の上に少し出ている家かげから、一歩二歩出た時、目もくらむ光線が西のほうで光った 。一瞬、身を伏せた直後、何も見えなく真暗。どの位たったか、うす明るくなり、線路の上を 後ずさりして道路の上に出た。上半身何を着ていたかわからないが、半ズボンのため左足の 股から下に大きな水ぶくれがあっちこっちにできてきた。顔の左側は光線を浴び、ヒリヒリしている。 頭は熱く、アツイヨアツイヨと泣いていた。

 次男は赤フンドシで泳いでいた為背中いっぱいに大きな水ぶくれが出来ていた。僕の 頭をみて毛が燃えてるといい、チョロチョロしか出ていない水道で濡らしてくれた。急いで家に 帰ったら、天井がぬけて空が見えていた。三男と五男は学校の塀の影でカスリキズ一つなく、 母は工場のガラスの破片で鼻のそばをケガしていた。

 市内のあっちこっちが、火災のため、人々は避難を始めた。壊れた家もあり、そのままの 家もある。道路上に、瓦が沢山落下して、はだしのままでは歩けないので、昔通っていた幼稚 園でゲタを借りて、東の方に向って避難した。

 汽車の線路の下が通れる様になっていて、矢賀の学校につき、二階に収容された。次から 次と避難する人が集まって来た。母と三男は父を迎えに市内に引きかえした。夕方、大正橋 か其の上の橋の向こうから、父がボロボロになってヨロヨロと帰って来た。毎日毎日 避難してくる人、死んだ人を山の上で燃やしている火を二階から見ていた。広島の町は三日 三晩燃えていた。三日目の夕方、山の上で燃やしている炎の中から明るい色をしたものがスー、 ファーと学校の一階に入っていった。

 次の日、母がどこからかお酒を一本持ってきた。父を タンカに乗せて、汽車で父の実家につれていくことになった。夜九時か十時頃、備後十日市と 云う町につき、自分もタンカにのせられ学校に着いた。町の人達は親切にしてくれた。
  自分の家につれていって、いろいろと食べさせてくれた。8月15日、皆集まれと云われ、集会所に 集まった。昼ごろラジオから、雑音のするとぎれとぎれの声で、放送があり戦争は終ったと皆泣いていたが、自分は何も感じなかった。

 学校にいた人達も一人、二人とだんだん少なくなった。8月18日、父が急に元気になりおきて 話をした。スイミツ(桃の一種)食べたいと言った。8月19日、午後6時、町の人の庭で蜂 にさされ泣いた時、父が亡くなったと兄が来た。次の日、火葬してもらい、自分が遺骨を持っ て北の庄かミドリという父の実家のある所で二日ばかり泊った。広島から離れているのに、 8月6日便所の戸がとばされたと言っていた。

 広島駅を降りた。一面焼け野原、電車が一両燃えたまま放置されていた。家は焼けなかった。 100m手前まで燃えていた。学校は半分壊れ、夜中にミシミシ、ドサーと音がしていた。
 9月始め、父の遺言で母の田舎、長野に行くことになった。母と16才を頭に一家6人、 知人をたよりに点々と住みかを変えた。学校ではピカドンの子、配給をたよりの生活、一ヶ 月配給ナシの時もある。ある時は一ヶ月分サツマイモ(カマス一袋)、ある月は大豆一袋、 それを物物交換した。サツマイモの種いもをもらって来たり、畑にあるハッパを食べて顔が むくんだりした。

 今日は学校を休めと母が言う。何も食べる物がない、母の気持ちはどんなだったんだろう!
 ある日、町の食堂で玉子丼を食べた。そのうまかったこと。母と自分と弟はその帰りにつり橋の上に いた。50m位の高さだ。ただ、だまって何分位いただろう。その母も77歳まで生きた。 自分もよく雨にぬれると熱を出したりしたが、現在はいたって元気である。ボウリング、パタ ーゴルフに腹の出っ張りを気にしている今日この頃です。
 子供の頃の体験は被爆より食料難でした。亡くなられた人々のご冥福をお祈り致します。
(2005年)

主催者挨拶(抜粋)
三・一ビキニデー静岡県実行委員会
代表委員・川本司郎(静岡県原水爆被害者の会・会長)
 きょう、三月一日は原水爆禁止運動に発展し、さらに世界に広がる原点となった記念の日でもあります。
 この三・一ビキニ被災事件以来、私たちが半世紀にわたって訴え続けてきた「核兵器全面禁止・廃絶」を求める声は、いまや世界に大きく広がり、国際政治を動かすところまで成長しました。

 二〇〇九年四月、アメリカのオバマ大統領は、核兵器を使用した唯一の国の道義的責任として「核兵器のない世界を追求する」と約束しました。七月には、先進国首脳会議・G8で初めて核兵器廃絶を決議し、九月には国連安保理事会首脳会合が、核兵器廃絶にむけて条件づくりを進めるとする決議を行い、日本の鳩山首相も「世界唯一の被爆国として核兵器廃絶の先頭に立つ」「非核三原則を堅持する」と表明しました。
 しかし、核保有国はいまもなお、核兵器は戦争を抑止する力があるとする考え方を捨てていません。

 今年・二〇一〇年五月に開かれるNPT(核不拡散条約)再検討会議にむけて、世界の反核平和運動が合流するニューヨーク行動が計画されています。私もこの行動に参加します。
 全国のみなさん。
 今回のNPT再検討会議では核兵器全面禁止・廃絶条約の交渉開始を求める決議が採択されるよう、「核兵器のない世界を」の署名をさらに大きく広げようではありませんか。日本中の草の根の行動を圧倒的に広げようではありませんか。
 人類はもちろんすべての生き物と核兵器は絶対に共存できません。

 私は八歳のとき、広島で被爆しました。広島駅から宇品までの軍用鉄道の鉄橋上で遊んでいました。すぐ下の川では兄と友達が泳いでいました。そのとき、比治山の上空がピカーと光り、火の玉がだんだんと大きくなり、急いで線路の上に身を伏せました。目をあけたところ、あたりは真っ暗やみ、時間がどれほど過ぎたのか、やがて上空に青空が見えはじめ、急いで道路に出ました。あたり一面、家がペシャンコになっていました。川から上がってきた兄たちは背中一面火傷をしており、私は、髪の毛が燃え、手足に火傷をしておりました。父は、市役所付近にいたので全身に大火傷をし、夕方、京橋あたりの橋の向こうからヨタヨタと歩いてきました。その父を、母と兄が避難先の矢賀の学校へ連れて行きました。一三日後の八月一九日、備後十日市町(三次市)の学校で父は亡くなりました。

 九月になって、母親の故郷長野県に引っ越し、親戚を転々としました。残された母親は、一六歳から三歳までの五人の子どもをかかえ、大変だったろうと思います。食べるものが無く、一日中、水だけを飲んで過ごしたつらい日々を思い出します。月に一回、配給がありました。お米は、ほとんどなく、サツマイモ、カボチャなど、みんなで少しずつ食べました。
 食いぶちを減らすため兄たちが次々に家を離れていったあの日、母が、私と弟を隣町の食堂に連れて行ってくれました。そこで食べた玉子丼のうまかったこと。その帰り、高いつり橋の上から母、私、弟と身投げをするためでした。弟が泣き出し、我にかえった母は、ゴメンネ、ゴメンネと言いながら家に帰りました。
 原爆被害は、ピカッーと光ったあの日から、今も止むことなく続いています。

 原爆症認定集団訴訟に勝利した全国の被爆者は、認定行政の抜本的改善を実現させようと、被爆の実相を世界に広げる活動を進めています。今度のニューヨーク行動では、国連本部で「原爆と人間展」を開きます。

 会場のみなさん。
 五月のニューヨーク行動を前に、静岡県内の自治体の対応にも大きな変化が生まれています。「核兵器のない世界を」の国際署名は、静岡県下自治体の八〇%を越える首長・議長が署名しました。これからご挨拶いただく焼津市長は、先頭に立って市民に核兵器廃絶署名をすすめ、ご自身もニューヨーク行動に参加することを決意されています。
 またこれまで静岡県は、ビキニ被災県でありながら「国が非核三原則を堅持しているので県の非核平和宣言は必要ない」と言ってきました。が、本日、三・一ビキニデーのこの日、静岡県議会は、「第五福竜丸の悲劇を再び繰り返さない」との文言を盛り込んだ「核兵器のない地球を目指すふじのくに静岡県平和宣言」を決議、採択することになりました。

 会場のみなさん。
 「原水爆の被害者は私を最後に」と訴えながら亡くなった久保山愛吉さんの言葉を実現する唯一の道は、核兵器を一発残さずなくすことしかありません。
 本日の「被災五六年三・一ビキニデー集会」を大きく成功させ、「核兵器のない世界」を実現する新たな出発の日としようではありませんか。
 以上をもって主催者としてのご挨拶と致します。  ありがとうございました。
(2010年送付)