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広島の声

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N.Iさん 直接被爆・距離4km(宇品)
被爆時17歳 / 岩手県遠野市10002

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。  私当時(旧制中学卒業を目の前に控えた2月)17才で陸軍船舶特別幹部候補生に志願し、香川県小豆島入隊。その後、2月26日に広島市比治山下の暁16710部隊(船舶通信補充隊)に転属し、通信の教育を受け、宇品町船舶司令部の岸壁で司令部へ電文を持って行く途中、左側面より被爆しました。

 その瞬間、目もくらむ閃光と共に炸裂した爆風による将棋倒しに家屋を倒壊、そして数時間経ってトラックで運ばれて来た焼けただれた傷害者。皆くる者団体で兵隊さん助けてもそぞろに云いながらゾロゾロ、フラフラと歩いてくるのでした。
 そして介護する暇もなく唯毛布を敷いて掘っ建て小屋に横臥させるだけ。その中に俄雨が一天、曇ってザーッと降り出し数10分で止み、そしてきれいな雲がモクモクと舞い上がって、また即ち原子雲である、それが午后4時近くまで浮いていた。そして、その夜の別命により通信機材を6名の特幹候補生、そして1名の班長引率で広島駅前のフタバ山へ移動、その晩の市内全体の火の海、いろいろ種々雑多な風による異臭地獄の街を午前3時近くまで、さまよい歩きながら見た死人の青いリンの焔、橋と云う橋は負傷者でいっぱい。

 兵隊さん助けての市民の声を後にしながら到着し、3日3晩市内の火災を見下ろしながら勤ムし、8月11日に船舶司令部へ帰り、その後の被爆患者の看護、そして亡くなっていく人は、毎晩10 〜15人位が次々と他界し、傷が痛いと見れば「ウジ」がうようよ這っている。それを割箸の 先端でとり、そして翌日の晩「だび」するのに、倒壊した人家からノコギリで切りとって運 び、夕日が山に沈みかける午後6時頃になると広島市内のアッチコッチからこの煙が舞い上り、私も遺体をタンカで運び火を点して一晩中かかって骨にし、朝仮眠して骨箱に名前を書いて安置室に安 置した。そして、引き取る人を待った。忽ち室一杯になるのだった。まだ忘れられない事 がありますが簡単に書きました。

 武力あって平和なし。命を尊守し、そして、核、戦、絶対に反対です。世界を上げて平和な世界をつくりたい念願です。以上
(2005年)

 此度、数10年前より岩手被団協では盛岡市内は勿論の事、県内各地で8月上旬に県下原 爆死没者追悼集会並びに原爆パネル写真展や、体験談を講演し高校生も数10人来て手伝 ってくれて、熱心に見聞し、戦争も原爆もなくなる世界になり平和であって欲しいと異句 同音に感想を記していきます。

 当市でも岩手被団協にならい、毎年この行事を開催し、市 民に訴えて居ります。小生も市内の中、小学校で生徒に講演を依頼され、日夜を問わず頑 張って、世界の平和を次世代に継承する為高齢に鞭打って、命の続く限り生涯を生き抜き たい決心です。

 広島原爆被爆体験談
 私は当時旧制岩手県立遠野中学校卒業を目前に控えた2月(昭和20年)、17才で陸軍船 舶特別幹部候補生第3期生を志願し、香川県小豆島の部隊へ入隊。其の後2月26日に広 島市比治山下の暁第16710部隊(陸軍船舶通信補充隊)に転属し、通信教育を受けま した。8月1日から5日迄実際の訓練をする為に広島市宇品町陸軍船舶司令部内で防空壕 の中に機材を設置し送受信を実施して居りました。5日の夜の点呼でも6名中3名がその 儘残留し、3名は部隊へ帰る事になり、その残留に私も入り、8月10日まで今迄通り訓 練を実施する事になりました。6日の朝3名が交替でやって来て、又3名は部隊へ帰りま した。運命はこゝにあったのです。

 昭和20年8月6日朝、B29来襲の報で、警戒警報が発令になり、間もなく空襲警報のサイレンが、けたゝましく鳴り響くや一天雲のない青天白日の青空にB29、3機来襲した。1万メートル以上の高度で飛行雲も鮮やかに飛来し、市民も私も近くの防空壕に避難したのである。
 猫一匹通らない、全然音も何も聞えて来ない、無気味な時間が経過していきました。シーンと静まり返った広島は、死の街と云っていいのか言葉が出てこない。私ジィーとB29を見上げて居たが、3機は市内から遠ざかって何事もなく去って、やがて警戒警報に戻り、そして空襲警報が解除され、安堵の胸 をおろし、市民がドヤドヤと防空壕から出て来て、元来の賑やかさに戻りつゝあった時、中天600m〜800m上空で、目も眩む閃光と共に市民の「アッー、ウオーッ」と物凄い 悲鳴が聞え、百雷が落ちたかと思われる炸裂した巨大な大音響と共に大爆風が起り、市内 四方にわたってガラガラと将棋倒しに家屋や建物を破壊したのである。

 その時私は司令部へ情報を得た電文を片手に駆け足で行く途中で、宇品港岸壁で左側面より熱線を浴び被爆した。その瞬間慌てゝ先程避難した防空壕に咄嗟に飛び込んだ。壕の中はグラグラ揺れて 土砂が崩れ落ちて来たので入口付近で、一瞬しゃがんで止むのを待った。やがて外を見る と数百米手前で、家の倒壊は止って居り、市内中央付近一帯は、灰暗色の物凄い噴煙が舞 い上り、殆んど見えなくなって居た。又その噴煙は太陽の光を遮断し、次第に薄暗くなっ ていった。

 宇品の消防屯所の火の見櫓で誰かが半鐘を叩いているのが聞えた。私は直ちに 司令部へ大急ぎで駆け込んだ。将校達がガラスの破片が顔に突きさゝり血だらけになって、 散乱する屋内を右往左往して居た。某将校に電文を渡し、直ちに班長の元へ戻った。「大 丈夫か!!」「ハイ大丈夫であります」と答えた。まもなく軍用トラック数台がエンジン の音も、けたゝましく出動して行った。班長は「部隊はどうなって居るか心配だ。 行ってくるからお前達は、この場を死守しておれ」と云って出掛けて行った。